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zoom RSS 雑記「SWAN SONG〜神話の鏡像〜」

<<   作成日時 : 2008/12/05 01:42   >>

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12月3日コンプリート。
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鬱りそうだったのでしばらく積んであった廉価版をようやくプレイ。もう冬だしね!

シナリオライター瀬戸口廉也、渾身の一作との誉れ高い作品だけあって、絶賛からそれに対する疑義まで、レビューも既にかなり充実している作品。
ASTATINE:「SWAN SONG」評。:
nix in desertis:『SWAN SONG』レビュー:
てきとうなもの SWAN SONG レビュー:
SWAN SONG - いつも感想中:
ゲーム評「SWAN SONG」 −Ballade des pendus−:
Thank Thee!: SWAN SONG レビュー:
last-「SWAN SONG」:
あなたの心に、白鳥の歌がとどきますように。 - Something Orange:

 ネタバレありのサイトもあるので、これからプレイされる方は気をつけて読まれるのが宜しいかと。
 他にもいくつか、ネタバレ覚悟で過去に読んだレビューがあったような気もするのだが、ぐぐっても見つからなかった。良いレビューがあったら教えて頂けると有難い。
 あと、本作に限定されたお話ではないが、この辺りの呟きも非常に考えさせられるところ大だった。
瀬戸なんとかさんの、希望と絶望 - 羊肉うまうま@ついったー部 - はてなグループ::ついったー部:

 そんなわけで、まっとうな感想というのは上で読めると思うので、本記事ではちょっと斜め上に暴走してみようと思う。
 以下はネタバレ込みの妄想である。(12月5日昼、一部補足)

 ――「SWAN SONG」の描写は生々しく切実である、と良く言われる。僕もそれは否定しない。
 しかし、その生々しさは物語としてリアルであることを必ずしも意味しない。プレイ体験として――あるいは己の内面への語りかけとしてのリアルさと、お話としてのリアルさは全くの別物である。
 クリスマスに生じた大地震。どこからも助けの来ない、先の見えない被災生活。晴れることのない空。
 上記のいくつかのレビューでも語られているように、「きちんとした大人」が存在している、という可能性が意識的に排除されていることも含めて、この世界は恣意的に作られた、例えば漫画「ドラゴンヘッド」などと比べてすら極めて現実味に欠ける物語空間である。
 この舞台設定はあまりにもご都合主義ではないだろうか――そう思う方も当然居たと思う。
 しかし、そもそもこのお話の一周目、所謂ノーマルルートにおいて、「リアルさ」とはどれほどの意味を持っていただろうか。真摯にその辺を批判されている方もいるが、個人的にはこの物語でそうした部分のリアルさの欠如を説いても無意味だと考える。
 なぜなら、これが何より物語るために用立てられた、つくられた舞台であることを物語の構造自体が示しているからだ。(それが成功しているかどうかは、また別の話として)
 では、その物語とは何であったのか。

>一周目――神話の語りなおし、あるいは神への異議申し立て。

尼子司
 天の、子の、司。
 この言い換えは誰か別の人もしていた筈なので僕の独創ではない。
 と言うか、ばかばかしいと思いつつも結構皆思うことじゃないのかな。
 まあ、ばかばかしさはこの際ひとまずおいて、神の子たるキリストの祭司――あるいは文字通り神の子、半神としての存在が彼である、と考えてみよう。
 そして、このSWAN SONGがまず司を中心とした物語である、と捉え直してみると。
 それはすなわち、震災の日に「生まれた」彼の受難物語ではないだろうか。
 イエスは死の間際に自分を見捨てた神への絶望を語ったが、司は「生まれる」前にすでに神に一度見捨てられた存在である。その彼が再度「生まれる」ことで、絶望の中から何を見つけたか。あるいは見つけなかったか。
 鍬形との最後のシーンで生き残った司が呟いた呪いは、神に向けられたものではなかったか。
 つまりはそういう物語だったのではないだろうか。
 神を求める物語などではなく、絶望を与える神に人として抗い、敗れつつも一つの反逆を成し遂げた物語ではないだろうか。
 そうだとすれば、エピローグにおける救いの無さもまた、むしろ当然と言えるのではないか。
 司の価値は勝利したことではなく抗ったことにあるのだから。
 最後に組み上げられた像は神にすがる祈りなどではない。あくまで抵抗の証なのだ。
 ただし、ここでキリスト教的な世界観に固執しすぎるのもまた問題かもしれない。
 なぜなら我々は、柚香との関係性においてキリストより彼に近しい半神を知っているからだ。

佐々木柚香
 彼女はファム・ファタルであるという。
 僕もその見方はほぼ正しいのではないかと思う。
 キリスト教的視点で見ればマグダラのマリア、というところか。
 しかし、このライターはキリスト教的モチーフと同等か、あるいはそれ以上にギリシャ神話的モチーフ※に拘っているようにも見えるのである。
 ※これは「プシュケ」を読んだ後だからこそ思うことかもしれないが。
 「芸術に愛された存在」であるオルフェウスとその妻エウリディケの物語はイザナギとイザナミの物語にも似た「冥界下り」の物語であるが、この道行き自体がそもそも終末的な風景であるとも言える。
 そして、オルフェウスは禁忌を破りエウリディケと断絶してしまうわけだが、イザナミの物語と重ね合わせて見れば、この物語もまた誤解とすれ違いの物語と読むことは可能ではないだろうか。
 柚香はその意味で正しくエウリディケである。彼女はついにノーマルルートでは司を理解することなく、司もまた彼女を理解しえない。それはお互いが生きていても埋められない断絶である。
 なお、オルフェウスの名は後オルフェウス教の信仰対象となった。彼はよりによって、伝説上彼を殺害した連中であるディオニュソス教徒たちに「再生する者」の象徴として崇拝されるのである。このオルフェウス教の体系がキリスト教の復活思想に類似していることは昔から言われていることで、更に付け加えるなら、一部の伝承では死したオルフェウスは白鳥となったとされている――となれば、この辺の神話モチーフがSWAN SONGに加えられていると見るのも穿ちすぎとは言えまい。

 では、ノーマルルートにおいて、司と対立する影として描かれる彼はどうか。

鍬形拓馬
 彼は司と同程度に、ノーマルルートのキリスト教・ユダヤ教的終末観を象徴しているように映る。
 しかし彼はけして試す者ではない。(蛇の象徴はむしろ希美かもしれない)
 彼は試されて堕ちた、もう一人の司である。
 堕ちた彼はそのまま終末世界における「妬む神」の似姿となり、だからこそ他の神――他の共同体を徹底して破壊し、自らの民をも痛めつけていく。その姿はそのまま司を見捨てた神の姿でもある。
 そんな風に考えてみると、彼の名に「馬」が含まれているのも黙示録の死の馬を思わせて何やら象徴的――かもしれない。

>二周目――より緩やかで楽天的な異議申し立て。

 一周目を回避した結果の二周目、と考えると、他のメンバーの存在は象徴的である。
 悪夢の向こう側、ではなく、外側。
 あくまで悪夢を乗り越えた先ではなく、悪夢を回避した外側にこの物語はある。
 そしてこのルートでは司自身はほとんど何もなしえない。成果を挙げたのは田能村であり、彼を支えた雲雀だ。
 そして、鍬形をも再び受け入れた彼らの存在そのものが、一神教的価値観に対する、多神教的価値観の反抗となっている……とはいささか考えすぎだろうか。


八坂あろえ
 ASTATINE氏のレビューにおけるあろえの、他のキャラクターの鏡像としての意味についてはかなり頷けるところがあった。しかし彼女は同時にシャーマン、巫女としての性質も備えているように見える。
 そう考えると、二周目のとあるシーンで血を撒き散らす彼女の姿は、何かを暗示しているようにも……
 八坂はどことなくイザナミの黄泉比良坂を思い出させる姓でもある。
 冥界と現世を繋ぐ存在、であったのかもしれない。
 (補足。八坂神社の存在を失念していたのでそっちはどうかな、と思って改めて調べてみたが、地名としての八坂郷と祭神(牛頭天王だったりスサノオだったり)には特に関係があるようには見受けられない。まあ、比良坂だろうとこちらの八坂だろうと、所詮こじつけ的連想にすぎないのであまり真面目に受け取らないで頂きたい)
 ただ、イザナミにしろスサノオにしろ、八という数字に縁のある神様ではあるな。(八雷の神、ヤマタノオロチ等)

川瀬雲雀
 最後に種をもたらす、普段から発揮される母性の発露――などから、彼女は豊饒神、大地母神の象徴とも読める。例えばデメテル。ちなみに彼女の娘のペルセポネも「冥界下り」している。
 そのペルセポネを取り戻したのは文化英雄にして神たるヘルメス。なお、ヘルメスはアポロンに竪琴を作ったが、アポロンの息子としてその竪琴を使っていたのは他ならぬオルフェウスである。
 彼女によって田能村が救われ、使者=英雄として送り出されることによって、破壊ではなく和解の物語として終わる。種が向日葵だった、というのはDG-Law氏のレビューでも指摘されているように太陽神を思わせて象徴的。(付け加えれば、柚香の夢に出てきた存在は柚香の心象であると同時に、破壊を与えた神と、苦しんだ民との和解を象徴している――かもしれない。最も、太陽神なら大抵は男性のはずだが)
 なお、ヘルメスの冥界下りにおいては、結局ペルセポネは完全に戻ってくることはできない。一年の半分をハデスの妻として地下で過ごすことになった彼女は、豊饒神と切り離すことの出来ない季節の移り変わり――冬から種を播く春へ、収穫の秋から長い冬へ、というサイクルを象徴する神であるとも言われている。
 そう妄想を広げてみると、柚香が最後に見た少女は太陽神と言うより、むしろペルセポネの鏡像としての柚香自身だったのかもしれない。

田能村慎
 雲雀と同じく、どこかに豊饒神の影を感じさせる名字とは言えないだろうか。
 雲雀の使者、と考えれば彼をヘルメスに比定することも可能だろう。
 また、字を解体すれば「他の神」と読めなくもない――というのはさすがにこじつけか。
 女たらしなのもギリシャ神話の英雄的、と言えばそうかもしれない?
 一方で額の黒子は白毫を思わせる。奈良の大仏の額にあるアレ。
 奈良の大仏は毘盧遮那仏だという。ビルシャナは密教における大日如来、インドで言うヴィローチャナであり、元はと言えば太陽神でもあるわけだが――この辺のイメージもまた重ねられているとは考えられないだろうか。

乃木妙子
 彼女の存在は半ばサービス(?)にしか思えないのだが、とは言えバッドでも二周目でも司に家族をもたらした存在、と考えると興味深い。
 イエスは家族と断絶することによって信仰者として、反抗者として己を全うした(しかし最後には絶望して死んだ)わけだが、家族を取り戻した司はもはやその時点で反抗者となる理由を失い、半神ではなく普通の人間に戻った――とも言えるだろう。
 天皇の死に殉じた将軍の姓が与えられている彼女は、一周目においては鍬形の敵としてのみその存在価値を与えられ、その姓に縛られた生涯を送った……ようにも見えるが、二周目でそこから解放された彼女の顔は爽やかだ。

 ……というか、ぶっちゃけ妙子の存在だけで僕は二周目を全肯定するね!
 ギリシャ神話は○○婚全然オッケーだしね!
 とまあ、オチもついたところで、この辺で。


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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
おやりになられましたか。キリスト教以外の神々との関連は気づきませんでしたね。割と目から鱗です。

ふと思ったんですが、「八坂あろえ」の八坂から黄泉比良坂でイザナミ、という発想がありなら、雲雀が太陽神というのは、天照を引っ張り出してくるなら母性であることと矛盾はしないと思います。まあこれもかなりこじつけになっちゃいますがw
DG-Law
2008/12/06 14:01
コメントありがとうございます(汗
DGさんや他の方のレビューを読んでいなければ、こんな妄想の翼をたくましくすることもなかったと思うので嬉しいですね。
雲雀が天照というところまでは連想ががつづかなかったなあ。確かにそれもイメージとして有りでしょう。
ぶっちゃけシンクレディズム的な視点からは何処にでも原型を求めようと思えば求められるんでしょうが、作者が何からモチーフを持って来たにしろ、神話的なものすべての底流にある「何か」を自分なりに語りなおしたかった、という意志はあったと見てもいいのではないかなー、と。
田川、エリアーデ、ギンズブルグ辺りを読んでいなければ、多分こんな感想を書くこともなかったでしょうね。その意味では今年プレイ出来たのは自分にとって幸運だったと思います。
紅茶
2008/12/06 16:23
ついでにもう一つネタバレ妄想。ノーマルルートの最後の対決は柚香=ペルセポネとするとこの場合は鍬形がハデス、司がヘルメスの役割を振られている。しかしその決着は両者の意志ではなく、神の悪意あるいは気まぐれによって左右された。(どちらも正当な勝者たる資格を奪われた)しかも勝利を投げ与えられたのは既に芸術に到達する術を失ってしまった司の方だった。それ故に司はより一層神の不条理を感じざるを得なかったのではないか――そんな事も思わなくもない。
紅茶
2008/12/06 21:50

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