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zoom RSS 雑記「あなたのための奇跡」

<<   作成日時 : 2010/06/12 18:42   >>

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 某所で書いた文章をもとに少しだけ噛み砕いてみました。

 若干は一般化した話になったと思います。
 言いたいだけのことを言いました、はい。



>奇跡という現象について

 捉え方によってまったくスタンスが変わってくる代物だが、ここでは「人の手に負えない現象を顕す、超常的なものの介在が疑われるような何か」ということでとりあえず話を進める。

 さて、古今東西犠牲を必要としない奇跡などない。
 某ノベルゲーにおける奇跡の顕れについての議論では、これを忘れ去ったかの言説がしばしば見られた。
 しかし故無きことではない。
 「現実はクソゲー」という名台詞(?)を転倒したときにあらわれる「クソゲーは現実」という視点がもしありうるとするなら、「良ゲーは奇跡(あるいはファンタジー)でよい」という視点も成り立ってしまうのではないか、というややアレな予測も必然的に導かれるからだ。
 それは奇跡的な日常とそこから導かれる奇跡の顕れこそがあるべき姿、とでも言いかねない極めてぬるま湯的な心性を内包している。
 とは言え、例えば某作に限定せずとも奇跡的な幸福(とあえて限定する)を達成した日常がもし在ったとすれば、それは奇跡ではなく無為もしくは人為に帰されるべきであって、何らかの超常的なものに還元されるべきではない、と願う人はいるだろうし、その心情は物語へ抱く希望として理解できる。
 しかし、超常的なものの介在が語られているとすれば、それはどう捉えられるべきなのか。
 そもそも誰かが言う奇跡とは、他人が考える奇跡と同じものだろうか?
 
>奇跡の対価
 
 と言うわけでここからは「ぼくのかんがえたきせき」ということになる。
 ゲームや物語から離れて、改めて考えてみよう――現実は基本的に個人と不等価だ。
 神は顕われず、奇跡は起こらず、君の前には可愛い妹も男の娘もヤンデレ姉も現われない(たぶん)。
 故に人はせめてファンタジー(あるいは信仰、あるいは夢)の中で己自身と等価なもの、己を満たすものを求める、というのが奇跡を求める人の心だ、と僕は認識している。
 そしてこの場合、人は常に現実より小さい存在である。何故か?
 現実において不等価の大なる側にいる人は、そもそもファンタジーを、奇跡を必要としないからだ。
 すなわち小さな存在である個人にとっての奇跡とは、対象となる個人にとってその奇跡と等価な代償を必然的に要求するものでなければならなかった。
 なぜなら、代償無くして現実に打ち勝てるなどとは、いかな夢の中の住人でも考えないからだ。
 ……いや、そうでない人もいるかもしれんけど。
 さておき、とある奇跡を起こすのに誰かの死が必要だったとすれば、同じ状況を発生させるにはそれと同程度の対価が必要になるはず――こう考える人が居て全く不思議ではあるまい。
 勿論「だったとすれば」の部分は仮定にすぎないので、実際、「その奇跡と等価なもの」とはもっと小さな犠牲でもよかったのかもしれない。
 しかし、命によって贖われたような類の奇跡が、仮に他の物によって代替されてしまう程度のものだとすれば、それは「安い奇跡」と言われても仕方ないのではなかろうか?
 そういう書き方を許すということは、すなわちその贖いを軽視することにつながるのではないか?
 そう考える人もまた居て不思議ではない。
 故に、奇跡の源を一意に確定することを求める心性というのは、恐らくこういった疑問、苛々、恐怖から生まれてくるものだろうと僕は考えるし、それは自然なことであるとも思う。 

>「投げ与えられる奇跡」についての基本的な整理

 ユダヤ教の神は民を救わない。基本彼が与えるのは罰ばかりだ。
 しかしそもそも「神の罰」というテーゼは現実に虐げられてきた民が己を慰め正当化するためにまとった鎧である。
 故に彼の地において神の奇跡はただ餌のごとく投げ与えられるものであり、彼らの現実では決して人の苦しみと等価なものとしては与えられない。(ヨブ記を見よ)
 一方キリスト教――教義として成立してからのキリスト教においてはどうか。
 こちらは一応教義上は等価(というべきかどうかはともかく)交換は保証されている。
 何故なら、人類の罪は未来に至るまで「あらかじめ」十字架のキリストがすべて引き受けてしまっているからだ。
 故に人はどんな辛い目に逢ったとしても、キリストを信じるだけで天国へゆける。
 しかし、逆に言えば救われるのは「死んでから」なのである。
 奇跡が語られるのはあくまで聖者の死後であり、迫害に苦しんで死んだ人も逆に異教徒を思う存分迫害して死んだ人もそこでは等価に信徒として扱われる。
 生者に与えられる奇跡はそこには存在しない――という点で、やはり教義上等価であっても現実においてはそうではない、ということだ。
 しかし、それでさえ人は神を信じる。
 そして、個人に奇跡(と見なされるような瞬間)が生じた場合、それをキリストがもたらした奇跡と信じるのだ。
 それは二千年前にキリストが人類を肩代わりした負債を「他ならぬ自分が」今取り戻しているのだと彼らには思えるからであり――すなわち彼ら個人に与えられるべき奇跡とは、いわば迫害と救済の交換を達成するために、信仰者が取り戻さねばならぬ負債なのである。
 しかし一方で、当時のローマにおいてキリスト教が広まったのはローマの多神教と比較してキリスト教が「対価を必要としない」宗教だったから――とも言われている。
 お布施も賽銭も救済には不要であり、ただ信じれば救われるとされたからだ。
 現実には当時の信徒は虐殺されたりしただけなのだが。
 勿論、組織が整備されてから、ローマの国教となってからはそんなことも無くなったわけだけれども。
 さておき、この信仰が広まっていった流れはどことなく何かに似ていないだろうか?
 遡及的に過去を形成しよう、という心性をもし現実に適用すればそれは「過去の捏造」である。
 先に述べたように、ユダヤ教徒が現実と折り合うためにやってきたことそのものではないか――などと僕は思ってしまう。
 そして捏造された過去を前提とした信仰においては、奇跡は「起きて当然のもの」と見なされ、ヨブの葛藤は神への反逆ではなく正しい信仰の証として改めて「受容しなおされる」のだ。
 故に、前項で上げたような「奇跡には自ら払う対価が必要」と考える人たちと上記のような「対価はすでに払ったから、俺たちは奇跡をそのまま得るに値する」と考える人たちの間に感情的な対立が起こるのは全くもって当然であろう。

>君が望む奇跡
 
 悲劇を見送ることしかできない物語の受け手は、それを無理やり受容するために物語における現実を一意に決定することを可能な限り拒否しようとする。
 そういう考え方に理がないとは言わないが――僕としてはあまり好みの態度ではない。
 最も、物語自体がそれを――代償無しの、無料の奇跡を望んでいると、そういう読みをあらかじめ許す書き方をされているのであれば、それはそれで正当なオチのつけ方だと思うし(萌えゲーにおけるとってつけたような悲劇にはむしろその態度こそがふさわしいとも言えるが)、奇跡の運び手が「あらかじめ支払っている対価」がもし既に存在するのであれば、「一見代償が無く映る奇跡」も正当なものたりうるだろう。
 端的に述べれば「かわいそうな○○なんていなかったんだ」ではなく「○○はそもそも前提としてかわいそうなんだから、誰に、何に由来するものだろうと奇跡は起きて救われるべきだ(かわいそうな境遇に有るという時点で上記に示したような対価はあらかじめ支払われているとみるべきだ)」という視点から遡及的に過去を形成しようとする心性は語られるべきなのかもしれない、ということになろうか。
 この場合の対価は聖なる愚者、あるいは畸形の英雄または魔術的跛者の背負うスティグマ、及びその対価として与えられる異能と同様のものと考えることができるだろう。
 さて、そうすると奇跡の運び手とみなされているもの以外にもそういう奇跡を「与えられる」資格のあるものは居る、という思考に至っても不思議ではなく、ここからはすなわち「かわいそうな○○はいなかった」という当初と同様の結論を求めることもできよう。
 まあ、論理の破れさえなければ、物語としてはそうであっても別に問題はない――はずだ。

 僕は過去について語る気はないし、物語における論理の破れは最小限であって欲しいと思っているただの旧い人間だ。
 故に僕は、あえて作品を賞賛せんがために論理の穴を「美しい穴」と言い換えるがごとき行為は極めて不健全かつ病的なあり方である――と思わざるを得ず、故に僕は彼らを理解こそ出来ても受容し得ない。

 


 ――そんなわけで、僕は「昔の鍵作品にいつまでもぶらさがってる連中の信仰っぽい何か」はまとめて嫌いです。
 勿論、ぶらさがってるだけではない人も沢山いるのでしょうが、正直ニ、三の例外を除いて区別がつきません。
 それは素直にごめんなさい。

 まあ、そもそも鳥の詩の歌メロもABの曲もあんま好きじゃない時点で、僕の信仰っぽい何かとは根本的に合わないのでしょう。バックトラックは結構好きですが。
 そんな僕ですが、今のところリライトはやるつもりでいます。
 アレで鍵作品を好きになれればいいですね。 

 そんな感じで、とりあえず。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
まどマギ視聴後見直してみたのですが、これを書いた当時からは若干自分の考えも変わったかなあと思います。ただ、僕はクリスチャンではないし「無償の奇跡」についてキリスト教における一般的理路をとることはしていません、ということは予めお断りしておきます。そして奇跡という言葉を一般的に使われている方も、僕と逆方向ではありますがキリスト教における理路をとってはいないように思えます。
紅茶
2011/04/26 03:19

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