HOTEL OF HILBERT

アクセスカウンタ

zoom RSS 雑記「お知らせとそれ以外の何か」

<<   作成日時 : 2010/12/16 22:10   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

まずは告知から。

恋愛ゲームシナリオライタ論集2 +10人×10説
http://members.jcom.home.ne.jp/then-d/10x10/index.html

 非才ながら参加させて頂いた。
 J・さいろー氏について、ということで、読んだ人が氏の作品に触れるきっかけとなれば嬉しい。

 

 ……さて、以下はそれとは特に関係ない話。
 ついったーで呟いたものであるていど考えがまとまっていたものを整理してみた。

>個人情報のデータベース化とか

 公共の圧力を感じやすい背景には日本語名が同姓同名を特定しやすい、というのもあるかもしれない。
 ( http://tinyurl.com/38yexe3
 佐藤一郎さんが逆に珍しがられる世の中では、特殊な名字の人なんてニュースで同姓の人がでるたびに親戚じゃないかとびくびくするわけで。
 そして特殊な名字であることが地縁と直結しやすい土壌もある(あった)わけで。
 日本語が個人を特定しやすい表記方法を採用している、というのは「ichiro sato」「サトウ イチロウ」と表音文字で表したとしても変わらない。ネイティブの日本人はその字面から漢字名をも想像して身近な人に当てはめることができるからだ。
 漢字圏の中では圧倒的に姓の種類が多い。(http://tinyurl.com/2fv8luw
 一方でアメリカのような多民族国家の場合、複数言語の姓が合算されるだろうから必然的に多くなるだろうけど、逆にこんだけ多くなると各民族における命名ルールとかわからなくて全体としてはかえって特定しづらくなるんじゃないか、とかそんなふうに想像してみる。
 これも日本語圏とアルファベット圏の文字から想起されるものの違い、ということなのかな。
http://tinyurl.com/352cvv7


>エロゲにおけるセレブお嬢様の有用性とか
 
 ヒロイン側の事情に幅をもたせやすいというのはあるんじゃないかと。
 トンデモ展開を許容しやすいというか 。
 東鳩の高校とか今考えたら結構なエリート校じゃね、という気がしないでもないな。
 で、最近の一人じゃなくてみんなセレブ、というのは結局マリみてとかその辺以降から手っ取り早くネタを持ってきてるせいじゃないのかしらという気も。百合カップルから片方を寝取りたい的な欲望も介在しているかもしれない。
 硬直した思想によって構成される舞台とそうでない舞台、どちらに新しい風を吹き込むのが容易いか、という話かもしれない。
 凰華女学院(かにしの)は前者、獅子ヶ崎学園(てとて)は後者と考えると缶蓋信者である僕には飲み込みやすい。
 なので、セレブの生活を覗き見したい欲望、というよりはヒロインのみならず世界に影響力を行使したいという欲望の顕れではなかろうか、とも。
 ただし、これはその類の代表作ともいえるおと僕とかでどういう処理をしているのかはぼくは知らないのであくまで妄想である。しかし、例えばるい智FDでは宮和ルートがだけこのメソッドであって、故に心地よいルートになったとも言える。他のルートではコンサートの一時的な全能感すら智たちには与えられない。
 あと、見も蓋もない言い方をすれば金も権力もない青年がそれを手に入れる一番手っ取り早い方法は金持ちで権力者の娘を落とすことというそれはマッチョイズム、なのだけど支配欲と影響を与えたいという欲望は若干ニュアンスが違う気もするのでこう言い切るのはやや微妙ではある。
 マッチョイズムに支配されている世界でマッチョイズムに乗っかることで世界観を改変したいと願うロマンティシズム、とか。つまるところルルーシュあるいは宇野メソッド。

 参考までに「てとてトライオン!」について語られた以下のURLを貼っておく。
 (http://tinyurl.com/2da9hsc )(http://tinyurl.com/3al2jaq
 なしおさんのを読んだあとでししょーのてとて論を読むと、つまりこれがマッチョイズムを行使したいというロマンティシズムというものではないかという気がしないでもない。
 獅子ヶ崎学園はマッチョイズムに支配されたセレブの園ではない。
 そこはマッチョイズムから最も遠い楽園――「永遠の夏」であり、革命は注意深く忌避されている。仮に個人がマッチョイズムを行使しようとしても、それもまた大いなる意志のもとに飲み込まれるだけであろうと予測されるのだ。そしてそれ故に変革を求める者には鬼門となる。
 
 後はこのあたりか。
 (http://tinyurl.com/34of6fo



>とあるエロゲの過去作品、についての雑感とか。

 元記事のURLを忘れたので若干一般化してみる。
 作品において製作者が神の役を担うというのは一般的に真であるが、では作中に神的存在が居る場合、製作者はその神にどのような振る舞いをさせるか、させたかという話。
 で、僕は製作者が神の操作を行うなら、神であることに怠惰であってはならないと考える。
 神ですら責任を回避しようとするところに何の誠意があろうか――そう思う。
 例えば、プレイヤーの判断に委ねられる物語、というのがよくある。
 しかし作品によっては、そんな結末に至ったのは製作者が「これしかない」という物語を提示出来なかった怠惰の故、という言い換えも可能だ。
 無論読み手の数だけ物語は紡がれる。
 しかし、肝心の製作者は「どう」語り終えたかったのか?
 それを提示できずに複数ルートであることに甘えて放り投げる物語のなんと多いことか。
 それは語り終えることから逃走した物語である。
 故に物語空間から逃れられない人々が発生するのであり、極めて製作者の罪は深い――と、まあこれは冗談だが。
 全く同じメソッドによって「だからこそ素晴らしいのだ」ということもまた可能なのだし、これは要するに書き方に対する好き嫌いの話以上のものではない。

 付け加えるなら、作品が製作者の意図を超えた広がりを持って受容される、というのは勿論事後においては良く起ることで、穴も瑕疵もその場においては再解釈されて尊いものには成りうる。
 ただし、それは製作者の仕事を免罪するものではない。もし中心に意図しない穴があったならそれは無能であり、意図した穴であってもそれは所詮怠惰あるいは妥協の所産であると、僕はそう思っている。
 穴を再解釈した結果が素晴らしいものであったとするなら、それは解釈した者の中に穴を埋める素晴らしいものがあったのだ、というところで批評は全て二次創作であるというお決まりの話になるのだが――だとしても。
 例えば辺縁に穴がいくらあったとしても、それはかえって彩りや広がりへのとっかかりを作ってくれるものとして受容されるだろう。
 しかし、中心の穴は誰がどんなに必死に埋めたとしても、それは空虚――あるいは鏡にしか繋がっていないのだ。
 そこに神は居ないのだから。
 最後に見えるのは、自分自身の顔でしかない。
 そして、終わりが与えられない以上、他者の手によって逃がしてもらうことは出来ないのだ――否、そもそも自分自身から逃げることが出来るだろうか?
 故に僕は、そうした作品は優劣にかかわらず罪深いと――そう思うのである。
 
 
 ……なんてね。  
  

 今回はこんなところで。
 外は寒いですサンタマリア。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
雑記「お知らせとそれ以外の何か」 HOTEL OF HILBERT/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる