HOTEL OF HILBERT

アクセスカウンタ

zoom RSS 雑記「ネトゲー小説のリアルって」

<<   作成日時 : 2010/12/25 21:59   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 昨日、飲み会でとあるネトゲー小説の話になって。
 基本、自分はあんまり好みではないのだけど、では何故そう感じるのか、というところでちょっと考えてみた。

MMORPG
http://ja.wikipedia.org/wiki/MMORPG
テーブルトークRPGのプレイスタイル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AFRPG%E3%81%AE%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB

 ネトゲー小説においては基本的に「プレイヤーのアバターの成長とゲームにおける達成」が目標となるが、それと並行して「リアルにおけるプレイヤーの成長と達成」がリンクさせられる、という形がわりと多い。それはゲームで知り合ったカップルがリアルでもそのうち……という恋愛においての達成であったり、人間としての成長であったり、あるいはもっと即物的な経済的勝利であったりする。
 僕はたぶんその辺に違和感を持っている。
 実世界での成長を結果でなく目的化している――というか、物語の方向としてそれを要求せざるを得ない、というあたりに歪んだものを感じるのだ。
 現実(リアル)にゲーム内実存(リアル)を持ち込むな/持ち出すな、と思ってしまうのかもしれない。
 上記の分類に照らしてみれば、僕はたぶん「リアルロールプレイ」や「キャラクタープレイ」「煮え」といった方向性を好んでいるのだろうが、しかしこれはあくまで今現在においてはTRPGだからこそ成立しうる問題だろう。MMORPGにおいては、多くのネトゲー小説におけるそれとは違い、まだまだプレイヤーとキャラは明確に切断されているので上記のようなリンクが成立する余地は低い。
 ゲーム上で格好良く振る舞うプレイヤーが「ロールに真摯であれ」と叫んでも、「でもお前リアルではロリコンのキモデブなんだろ?」とか「お前オクでボリすぎじゃねーの」とかどこかから漏れた個人情報をもとに罵倒される程度の、そしてそうした罵倒も大した重みを持たず流れていく――現実とのリンクは今のところせいぜいその程度である。
 篠房六郎が「空談師」や「ナツノクモ」でやや皮肉に描いてみせたように、ゲームでどんなに何かを達成したところで、プレイヤーの現実が劇的に変わることはない。(経済的勝利などは今でも普通にあり得るだろうが、それはロールを演じることではなく単純にツールとしてゲームを利用することによって生まれるものだろう)
 しかし、多くのネトゲー小説(系譜を辿れば古くは「ドリーム・パーク」、そして攻殻やマトリックス以降の想像力であろうが)はそれを推し進めてバーチャルリアリティがリアルをも浸食し、リアルでも力となる世界を舞台とする。
 その場においては、誰もが実質上記の分類においてはメタプレイを強いられる、あるいは進んでメタプレイに飛び込む、とも言えるのだが――でもそれってどうなん?と僕は思ってしまうのである。
 ゲームにおける達成は究極のところ虚無だが、プレイヤーがそれによって何か得るということは勿論普通にある。
 古橋秀之「ソリッドファイター」の主人公が没入するのはネトゲではなく格ゲーであり、そこでのキャラクターは分身というよりはプレイヤーの武器であり現実に投げる石だ。だが、投げた石によって変わるのは世界ではなくあくまでプレイヤーの内面にすぎない。
 最近では川原礫「ソード・アート・オンライン」などは設定を見るかぎりでは現実と実存を同期させるための理由付けにかなりの労力が割かれていることが伺え、できるだけ「リンク」に強度を与えたい、という苦心は見て取れるのだが――だとしても、その構造的な「都合の良さ」という歪みは拭えないと感じる。(都合の良い物語、が悪いということではないが、この都合の良さは例えば上記のような「でもお前リアルでは」的な罵倒を現実におけるカーストへと接続してしまう。アクセルワールドにおいてキモデブ主人公が周囲に認知されていく過程はその裏返し――ゲームにおける達成が現実を改変していく、という極めてタチの悪い「都合の良さ」である)
 逆に言えば、現実においてどんなクズであろうともゲーム内で真摯なプレイヤーでいることはできるし、その逆もまた真である。それが暴かれ晒され、「ゲーム内での成功のためには現実での真摯さも求められる」ように誘導していくポリティカリーコレクトによって駆動される物語世界というのは端的に悪夢である――いや、勿論容易く暴君と化す子供たち(あるいは大きな子供たち)には手綱が必要であり、小説が「良き手綱」を担うこともあっていいとは思うのだが――それはちょっとしたディストピアではなかろうか?
 ゲームとは現実を変えるためにではなく、個々のプレイヤーとその共同体のためそしてゲーム内世界を救うために存在する――せいぜいその程度がふさわしいと、僕には思える。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
雑記「ネトゲー小説のリアルって」 HOTEL OF HILBERT/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる