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zoom RSS 雑記「魔法少女血風録」

<<   作成日時 : 2011/04/25 23:13   >>

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「魔法少女まどか☆マギカ」11話、12話を視聴。
4月27日、リンクをいくつか追加。

参考記事:
404 Blog Not Found:奇跡も、魔法も、あるんだよ - 作品評 - 魔法少女まどか☆マギカ http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51672499.html
『魔法少女まどか☆マギカ』、その醜悪な結末 - じゃあ二分後に、踏切で http://d.hatena.ne.jp/matunami/20110423/p1
nix in desertis:キリエ・エレイソン −キリスト教的に解釈するまどか☆マギカ http://blog.livedoor.jp/dg_law/archives/51969711.html
nix in desertis:キリエ・エレイソン(2) −魔法少女まどか☆マギカの私的解釈・感想 http://blog.livedoor.jp/dg_law/archives/51970741.html
お前の力を凌駕したまどか☆マギカ -BLASSREITERとまどか☆マギカの共通点: 凍てつくが如く、哀槌を鍛つ http://ib-armedstrongkanon.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-ce73.html
魔法少女まどか☆マギカ…宇宙のエネルギーの正体とまどかの選択の理由 - 散録イリノイア http://irimadonna2.blog105.fc2.com/blog-entry-346.html
crow_henmi(@crow_henmi) - Twilog http://twilog.org/crow_henmi

 感想をいくつか漁ってみたのですが、僕の観測範囲では上の記事がそれぞれなるほどなーという感じで参考になりました。
 どれがしっくりくるか、というのはさておき、まずちょっとした与太を。

>フェミニズム闘争としてのまどマギ
 例えばそんな視点。
 新たな世界において、敵は魔女から魔獣に変わったわけですが、それに伴い外見にも変化が見られます。
 魔獣はどちらかというと坊主あるいは聖職者を思わせる外見を持っており、それはそのまま男性性の象徴と読むことが可能です。
 そういう目で見てみると、「男性原理が予め少女に負債を追わせる世界」における敵が「分を超えた望み」を抱いた少女のなれの果てである魔法少女のさらになれの果てであった魔女であったのに対し、新たにほむらたちが戦うのはより直接的な男性原理を象徴する魔獣であり、これは確かに理不尽な世界に対する闘争を望む少女たちにとっては一歩前進とすることが出来るでしょう。
 信仰が男性原理を肯定する世界における信仰との戦いから、信仰をはぎ取ったところに現われる男性原理との直接的闘争へ――と見れば、現実に信仰に支配された世界で起きた流れとシンクロしているとも言えます。
 まどマギのモチーフにも使われている一神教的なそれを例にとれば、ユダヤ教からキリスト教へ、という過程でギリシア・ローマの多神教的価値観を取込み、女性の地位向上がなされているのは多くの人が認めているところであり、一神教的な束縛が基本女性を抑圧する方向に発展し、それ故にフェミニズムから批判されてきたのもまた歴史の流れの一つです。
 「男性原理が〜」の根拠については、iri氏の記事に書かれていたような部分を言い換えると僕にはそう見えます、ということですし、一神教が伝統的に女性を抑圧してきた点については一部のイスラム世界で今もしばしば起きるような痛ましい事件を思い起こすだけで充分でしょう。この辺はユダヤ教であれキリスト教であれ、今でこそ見えづらくなったとはいえそもそも聖書の記述がそういう原理に支配されている以上、いまだに消え去っていないと言えます。
 魔女とされ火あぶりになったジャンヌダルクは死後に讃えられ名誉回復されますが、生前彼女をあのような運命に追いやった男性原理が支配する歴史、というもの自体はそのままで連綿と続いてきたのですし。
 ――みたいな。
 
 ええ勿論ただの戯言ですよ。
 与太はこの辺にしておきますが、敢えてこういう見方をせずとも辺見氏や松波氏、iri氏などが述べられているようにまどマギに描かれた世界構造は基本的に邪悪であるという点はやはり指摘せざるを得ないでしょうね。

 あと、10話までから連想したあれこれと視聴を受けての最終的な感想を以下に。
 振り返ると想定外というほどではなく、想定内でわりと酷いほうのオチになったなーという感じ。
 面白かったしシャフトアニメとして映像は好みではあったけれど、お話としては好き嫌いで言うとうーん、みたいな。
  
>視聴前の安息

・ギャラクティカほむほむ
・禍福はアザナエルの如し
・記事みなくてもTLの呟きでなんとなく見えてくる風景があって実は今が一番楽しい

>荒れ野に降ってくる奇跡は果して無償なのか

参考記事:雑記「あなたのための奇跡」 HOTEL OF HILBERT/ウェブリブログ http://atslave.at.webry.info/201006/article_1.html
・僕たちには奇跡が足りない
・対価のない奇跡はない
・それはそれでいいのだ。一見無償に見える場合、それは予め支払われているにすぎないのだからーという見方は同意された試しが無いが改めない
・荒れ野か森か世界にどちらをみるかによって変わるスタンス
・めも。マイナスの対価がプラス、と常に決まっているわけではない。微量のプラスの集合への対価がプラスであることも普通にあるだろう
・彼らが奇跡的な日常と呼んだのはそういう降り積もる微小のプラスの結果ではなかったか
・あと、対価はそもそも真の意味で等価であることは稀なので、不等価であればそれだけでやはり奇跡の名に値するとは言える
・いわゆる物語上の奇跡には全て量も質もある。計りたがらないのは、計れないものがあると信じたいからにすぎない
・まあ、この辺は創作上のスタンスなので合わないのはだいぶ前に絶望と共に理解しているけど
・奇跡とはない所に降ってくるのではなく、あるべきところに与えられていないものを取り戻しているのだと、そう思っている
・起きないから奇跡って云々は神の怠惰にすぎないので積極的に神を蹴飛ばしにいきたいですね!
・ あなたが奇跡だと思った事象が奇跡です
・創作とか物語に関して言えば、マイナススタートに加えられるマイナスは奇跡とは呼べないよなーとは思うけども
・世界を構成する人々は世界を構成すること自体ですでに対価を支払っているのであり、訪れる不幸は天罰などではなく、単に神の怠惰の故、みたいな。うまく言えないけど
・少なくとも、物語というフィールドにおいては定式化されてない奇跡などないので
・天罰、という人は対価を払わなかったから、と考える。そうではなく、みな払っているにもかかわらずを神が怠惰ゆえに無視しているのだ、と見たい(現実と接続するのはよくないが、わかりやすい例として)
・創作の話に戻れば、絶望的な状況だったけど最後理屈も何もかも無視した奇跡が起きて全て上手くいきました、という話なんて今時どころか二千年前でも書けないであろうという
・理屈が必要で、理由が必要で、ということであれば、それはその時点で無償などではない
・あとは「奇跡」をどんな意味で使ってるかで全く噛み合わなくなるので、まあ。鍵文脈のある種の人々とは永遠に噛み合わないであろうというのは以前学んだ
・まどマギに関して言えば、10話までに起きたことはそもそも全て「契約」であって奇跡だと思っていたのはせいぜいさやかくらいのものである、というだけで充分だろう。だからこそ、最後どう始末をつけたのかは気になるけれど
・ひとつの因果を含むお話があった場合、完成時にいかに因果を全てぶっとばした奇跡的なフィナーレが訪れていようとも、そこに至るまでにはその因果にどうけりをつけるか、どう理屈をつけるか、という作者の試行錯誤がある。読者には因果を無視することが許されるが、作者には許されない
・無視する作者はすなわち怠惰な神と同様である、とか。

>再演魔道師対QBという妄想

参考記事:雑記「魔法少女の円環」 HOTEL OF HILBERT/ウェブリブログ http://atslave.at.webry.info/201103/article_2.html
・ほむらと似たような方法で魔女化を回避しつつ無限に未来へ遡上しそう
・きずな方式だと、最強の魔女化した多元世界がいくつあっても、ひとつだけ成功した世界が残ればいいという感じかしら。ただ、完全に成功は決してしないので無限に遡上しないといけないという
・QBは再演魔道師には勝てんよなーとは思う
・無限にまどかを救いつつソウルジェムが汚れる要素を潰しつつやりなおしやりなおし――(´;ω;`) ブワッ
・なのでやはりきずなになるのはほむほむではなくまどかでなければならないのではないかと
・ほむほむは魔獣使いになって寄り添えばいいの
・まだ残り二話見てないんだけどなー(虚無
・「だから言ったじゃないですかー!想像してる間が一番楽しいって」


>ネタバレを微妙に観測した後の暗黒

・ところでほむほむの兵器って能力の一部かと思ってたけど全部実物(?)なの……
・「まどマギは信仰」というコピペが流行るのか……
・「まどかストッキング」と再殺部隊の組み合わせでSS書けそうだけどどうかんがえても邪悪なのであれだ
・というか時すでに遅し的な
・オーケン的な少女の呪縛というのはあるのだろうな。今日映画のあともちょっと思ったけれど、96年以降ずっと続いてきたものとして
・オーケン自身が脱出したようで再発したようでもありなんとも言えないけれど
・続いているというか、再生産されているのか
・それを報われたというのは過労死した人の貢献を惜しみ讃えること、みたいなやりきれなさを見ないことと接続しちゃうよねみたいな
・讃えることで報われたとしても、世界が砂漠であるということは変えられない絶望として残ってるよねみたいな


>そんなわけで視聴後。

 妄想については当たった部分もあり妄想よりひどい部分もあり。
 (妄想より救われてた部分もあった……かな?)
 個人的には、現にある世界は確かに砂漠であり荒野なのだとしても、かつてそこは森であり沃野だったのだと――そう信じて、沃野を取り戻すことを願う話のほうがやっぱり好きかな、と、そんな風に思うのです。
 まどマギはただ願いを利用されるだけの理不尽を解消し、願いに殉じて主体的に戦う自己を彼女らが取り戻すお話でした。それは契約という名の搾取から、本人にとっての奇跡あるいは等価交換への進歩ではあります。
 少なくとも、そこには自分で奇跡を贖うために闘争を選んだという自己責任はあるのですし。
 それをもたらしたまどかの犠牲は確かに素晴らしい奇跡であり、まどかもほむらも救われていなくても報われてはいるのでしょう。二人の百合関係的な部分では円環は綺麗に閉じましたし。
 確かにその関係は呪いではあるけれど、ほむほむはその呪いに束縛されたいと自ら願ってもいるわけですし。
 しかし、ならば奇跡の先には彼女らが戦わなくてすむ、救われる世界も望まれて良いですよね、と。
 無償では何も願えない、対価は常に必要だ、というのは理としては仕方ないところではあるけれど、しかしそもそも無償で救われたと見える事象のほとんどは、実際のところ無償ではないのであって。
 であれば、等価に見えるそれは本当に等価交換なの、という問いもありではないでしょうか。
 (ハガレンですら散々等価交換言っておきながら内実は違うだろみたいなところあったわけですし)
 少なくともまどマギにおける魔法少女は依然として搾取されてるんじゃないの、と、そんな風に感じてしまうわけです。
 あるいは、現実の世界が最初の時点から砂漠だったのなら、それも仕方ないことなのかもしれません。
 しかしそうでなかったことは、二千年前の人々ですら知っているのであって。
 予め全ての人は代償を支払っているが、神的な何かの怠惰ゆえ救いは全ての人には行き渡らないという、ただそれだけなのだと――負債は人が神らしき何かに負っているのではなく、その逆なのだと思いたい。
 現実より悲惨な世界構造の中で数歩救済に近づいたからといって、それは果して賞賛されるべき決着の付け方と言えるでしょうか。それは根本的な悲惨を放置し固定化することと同義ではないのか。
 何も、手放しで無償の奇跡を寄こせと言うわけではない。
 せめて、世界を変えたと言うオチにするならばその後の闘争は贖うためのものではなく取り戻すためのものになっていてほしいと、そんな風に思うのです。
 この辺はもう個人的な好みの話ですが、「円環少女」あるいは「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」あたりと読み比べてみると、何故もやもやが残ってしまうのか結構クリアーになるんじゃないかな、かな。

 最後に良くできたネタ記事を。

まどか教 (まどかきょう) とは | ピクシブ百科事典 http://dic.pixiv.net/a/%E3%81%BE%E3%81%A9%E3%81%8B%E6%95%99

 虚淵を心にほむほむと唱えよ。 

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