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zoom RSS 雑記「留保無き日常の肯定について」

<<   作成日時 : 2011/08/24 21:07   >>

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つれづれなるままに。8月28日追記。


「もうちょっと救われていたい」
 主人公やヒロインが道を踏み外しているのは作品の評価には関係しないが、描かれ方や語られ方にエクスキューズや留保がまったくないと不安になったりはするかな。個人的にはけいおん一期もそういうものだけどたぶんあまり一般的ではない(*1)。
 留保無き生を肯定する前にローカルルールをインストールして生まれなおしてこいと思ってしまうような生の在り方について肯定すべきなのかどうか誰か法治を。
 ナショナリズムや宗教と切り離された普遍道徳的なものを定式化することは可能だろうか。
 可能ならROM化して脳に焼き付けて生まれてくるべきだった全ての人類「老いも若きも」「大人も子供も」「全て同時に平等に」 
 欲しいものリストに世界平和を追加。
 

「心不全をこころふぜんと読む不穏」
 幸せな日常として描かれている何かが前提としている共有可能な日常なるものがすでに荒廃し退化し貧しくなっているのではないか、という不安あるいは恐怖みたいなものが先日ポスト(*1)していたときに漠然と感じていたものだったかもしれない。
 女児の教育的側面からすると敵がイケメンなのとむさいおっさんなのとどちらがより望ましいのだろうかみたいなどうでもいいことをプリキュアを流しつつ考え飯を食う。
 親が考える仮想敵をビジュアル化すると生々しすぎて外見差別と呼ばれそうなのでそういうものを採用しないというリテラシーは働いているのかもしれない。生々しいものはそもそも娯楽としては電波に乗せられないか。
 音楽がテーマのアニメなのにテンポが悪いとはこれいかに。
 EDのハミィがかわいいけどきもちわるい。


「生き難き ことも無き世を 生き辛く」
 みたいなところから抜け出したいとはまあ思うけどなかなかそうもいかないので。
 この辺(*1)をもうちょっと上手く言語化できないものかとは考えているがうまくいかない http://t.co/pe1YiyA
 で、ますたあ陽太郎氏からのリプを受けて。
 萌え四コマとかが例でもいいのですけど、描かれている世界におけるモラリティがどこまで信頼できるものかと問うた時、現実に即しているから信頼出来る、のか、即しているから信頼に値しないのか、即していないにもかかわらず尚信頼に値しないのか、みたいなところを考え出すとなんか憂鬱になりませんか、みたいな。
 縮小する市場とも繋がっていく話ではあるのだけど。いかに国家は上手く老いられるかという。
 もりやんさんの百合ツイートで思い出したのではあるが、百合が念頭にあったわけではなく、もっと一般的な日常の風景での動作においての話ではあるけれど。
 感覚は近い気がする あずまきよひこ『よつばと!』3巻 http://t.co/F6Dijiv
 ただ、そこに停滞より強く退嬰を見てしまうか否か、なのだろうなあ。
 楽園に恐怖をおぼえるとすれば、その人にとってそこは楽園ではない。それは楽園の咎なのか、選ばれなかった人の咎か…という方向に行くとハーモニー的な何かに繋がってしまいあまり筋がよくない。


「お兄ちゃん、毎年新しい十代のワナビは生まれるんだよ?」
 にょろ氏と二次創作の話をしていてロジックで出来たキャラがいる作品は書きやすいといえば書きやすいのかなあとか改めて思うなどした。
 禁書はその意味ではむしろ書きづらいほうに入ると思われるのだけど。
 例えばきのこや西尾においてはしばしばキャラクターの能力はそのまま生き方死に方と直結しているけれど、禁書においては必ずしもそうではない。能力者においては特にそうで、むしろ魔術(宗教)側のほうがロジックに支配されている、みたいな。
 西尾は先だってのめだかボックスにおいて「ロボットであること」や「電波ちゃんであること」はただそれだけのことでしかないというロジックを提示したが、生き方としてでなくツールとして能力を持ち使う、というのは「ただそういう存在であること」ということとさほど差はないのかもしれない。
 うまくまとまらない。そういう存在であることとそういう存在であろうとすることは表面上は同一だが内実はそうでもない、とか。


「思い入れすらないものを玩弄するのは個人的にはあまりたましいによくない」
 なので実際に血を流した人だけがDisるべきだろうとは思う。
 寝た子は起こさないほうがいいし死体は掘り返さないほうがいい。


「眠りたいのでよい夢をください」
 めだかボックスとかの話。主としてにょろ氏とのやりとりから。
 パラサイトシーイングがツールとして使われる限りにおいては善吉は善吉でしかないけれど(「普通」かどうかはおいといて)、例えばそれが彼全体を規定するものになってしまうような状況が生じたときどうなのかという仮定はできるかも。
 雲仙くんとめだかちゃんのバトルは相当程度概念バトルだったのだけど、そこまで行ききらないという抑制がめだボを少年漫画にしているのでうんぬんかんぬん。
 キャラとロジックが=になるキャラというのは戯言でいうところの「生き止まった」キャラにならざるを得ないので、少年少女が主人公である化物、めだボ、りすかなどではその辺りには救いというか安全弁が与えられているとは思う。クマーさんが負ける前の過負荷やめだかちゃんに負ける前の十三組がそういう「生き止まりかけ」の存在として描かれているかなと。なので僕は善吉くん=悪平等説を妄想する。
 悪平等の定義について。安心院さんの「敵なんていない」発言も含め、ちょっとこれだという定義は開示されていない気がする。学長への言葉も額面通りには受け取れないのとあと不知火半纏と半袖が結局なんなのかという部分がまだ不透明、かも。
 オールフィクションとリアルイーターは名前からすると対の能力のようにも思える。
 クマーさんと「同じ」という半袖は結局何が「同じ」なのか。「なかったことにする」と「ルールを変える=なんでもあり得ることになる」とか……?

 まったく関係ないが物心ついたときからすでにTVにおいて老人として顕われている人、というのは誰でもそれぞれに思い浮かぶ人が居ると思うのだけど個人的には歌丸がそれにあたるのであの方が去る日が僕の昭和の終わり。
 誰かの日常の象徴としての誰か。


 ここから追記。

「知恵熱と呼ぶに値しない程度の考えすぎ熱」
 引き続きめだボについて。
 なんか悪平等の五人が扱いにムラがある印象なので担当もとばっちりを受けてる感が。
 将来生徒会長になりそうなのはロボ子な気がする。あの五人で一番なりそうになく一般人に拒否られそうという意味で。
 あの五人は「普通」扱いなのだけど、安心院さんの眼でみるとそこには肯定も否定も無い。しかし彼らの中から見るとどうか。あるいは一般人から見てどうか。前者には「特別」になりたいという思いはあるのか。後者には彼らを「普通」あるいは「普通以下」として見下し引きずり下ろしたい思いは無いか。
 彼ら五人がというより彼らを取り巻く状況そのものを悪平等と呼ぶ――の、かな?
 ノットイコールは「イコールではない」つまり「同じではない」これを悪平等にフリガナとして振るところにそもそも捻れがある。
 ノットイコールは「キャラクター≒生き様≒スキル」の≒がそれぞれ≠である人々のことである、という仮定は可能だろうか。それは物語においては確かに「普通」であり「何者にもなれないお前たち」であるのかもしれない。

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