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zoom RSS えろげー雑記「『ガラスみたいに透明で フィルムみたいに泳いでる』〜私論・丸谷秀人〜」

<<   作成日時 : 2015/09/26 22:06   >>

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再録。

 サークルtheoriaから発行されていた「恋愛ゲーム総合論集2」の完売に伴い、紅茶が執筆した記事について、この度Web公開することと致しました。詳細についてはRyuArai氏の日記もご参照頂ければ幸いです。

RyuAraiの日記 - lovegame30x30グループ http://lovegame30x30.g.hatena.ne.jp/RyuArai/

 引用が非常に多くなっております。まあにゅあんすで。

「ガラスみたいに透明で フィルムみたいに泳いでる」〜私論・丸谷秀人〜


1.はじめに


 世界は光のあてかたで見え方ががらりと変わってしまうものなのだ 
――『遥かに仰ぎ、麗しの』榛葉邑那ルートより

  

 ――それは例えば榛葉邑那と李燕玲をとりまく諸々であったり。
 あるいはファルケンスレーベン王国をとりまく諸々であったり。
 または高尾椿や伊東わかばや宇奈月由真をめぐる諸々であったり、勿論相沢美綺や仁礼栖香、オルタンシアや矢旗澤香純、アマリやジゼル――さらには鰐口きららやアゼルなどをめぐる諸々であったり。
 そして言うまでもなく、早瀬美奈という一人の少女についての諸々であったりもする。
 丸谷秀人というシナリオライターが書いてきたお話は、全てそういうものだった。

 言葉が一つ吹き込まれるたびに、わたしたちの脚は重くなる
 わたしたちとて踊り子の端くれ、言葉のない世界の縁を、爪先立って踊ってみたい気があったのだ
――山尾悠子「夢の棲む街」より


 サークルtheoriaの既刊「30人×30説」においてさひろ氏が述べたように、丸谷秀人氏は既に大ベテランでありその参加作品は実に多岐にわたる。
 氏の参加作品を総括して短い言葉で語り尽くすことなど不可能であり、本来なら氏自身が日記で語っていることやインタビューで答えていること、それを読んでいただくのが一番よいと僕も思う。
 しかし、PULLTOP作品と『SEXFRIEND』によって氏を知った僕としては、不完全であることは承知しつつもそこから氏について何かしら探り当てることが出来ればと思うのだ。
 もちろん、それもまた、光のあてかたによって異なる結論が導きだされる類のものではあろうが(*1)。


2.テキストの迷宮〜反復と変奏の技術


 植物のくきを思わせるしろくほそいゆびが、
 七宝で飾られたちいさなぽっとを傾け、
 僕のティカップに紅茶を注いでくれる。
――『遥かに仰ぎ、麗しの』榛葉邑那ルートより

 


 元長柾木は「美少女ゲームの臨界点」において以下のように述べている。

「さらに美少女ゲームは変容する。『Kanon』に至って、「反復性」を獲得することになる。日常シーンが異様に膨れ上がり、明けても暮れても他愛のない会話をキャラクターたちと繰り返すことになる。然し不思議なことに、これは必ずしも苦痛にならず、それどころか快楽をもたらす。すなわち、シューティング性に支えられた反復性の恍惚である」(*2) 

 丸谷秀人は、所謂美少女ゲームの主流がビジュアルノベルに移行する前の、コマンド選択式ADV/SLGの時代から生き残っているライターであって、ノベルゲームを手がける際にも当時から培った技法はよく使われている。
 具体的には両者の折衷的な作風である『MAID iN HEAVEN SuperS』や『SEXFRIEND』などで用いられている、調教が進むほどにやれることが増え、結果として見ることが出来るテキストも増加・変化していく手法――そして、そのテキストの積み重ねが結果として一本のストーリーを生成していく構造を想起していただければよいのだが、この積み重ねと繰り返しから少しづつテキストに変化が生まれていく、という技術は氏のノベルゲーにおけるシナリオにあっても顕著だ。
 例として、『ゆのはな』と『遙かに仰ぎ、麗しの』分校組における特徴的な反復を列挙してみよう。
 椿ルートにおけるタンデムでのプチ逃避行→小説読解の繰り返し。 
 わかばルートにおける風呂での背中流しや除雪アルバイト。
 栖香ルートにおけるキスと寸止めセックスへの耽溺。
 美綺ルートにおける地下探検と以下同文。
 邑那ルートにおいては言わずと知れた温室でのティータイム。
 サブライターとして参加している『しろくまベルスターズ♪』、『太陽のプロミア』でも当該ルートにおいては同様の技法が頻出している。きららルートにおいては弁当づくり、アマリルートにおける図書館通い、ジゼルルートにおけるご飯――その他、細かい反復と変奏をあげていけばきりがないほどだ。
 では、この反復と変奏はどんな効果をもたらしているのだろうか。
 うがった見方をすればそれは手癖あるいはテキスト量稼ぎである。しかしそれだけではないことはということはやった人間なら知っている。元長氏が上記において述べたように、そもそもこの反復は作業としての徒労感から開放されている限りにおいて、優れて麻薬に近い恍惚をもたらすものだ。
 そして、丸谷氏においてはこの反復は常に終わりを意識したものとして最初から立ち現れる――それゆえに、プレイヤーは徒労感から予め逃れることが可能であり、それゆえに今ここにある反復の瞬間を――訪れる変化を、畏れつつ待つことができる。
 それゆえに、プレイヤーは、主人公はテキストを先へたぐらずにはいられない。
 ただ同じことを繰り返すことには主人公は飽いている――それゆえに彼らはしばしば破壊者として振る舞うし、繰り返される日常には常にどこか陰がさしている。
 意図的な遅延は終わりに至るまでの快楽を引き延ばすあがきであり、同時に亀の歩みではあれ確かに進んでいることをプレイヤーに意識させる餌だ。それ故、この手法が用いられるヒロインは全て単純な存在ではありえない。早瀬に代表されるように、彼女らはみなファム・ファタルとしての顔を強く持つ。端的にいってめんどくさい――相沢美綺がゲストたちを指してゴルディアスの結び目のごとく複雑にこんがらがっている、と評したように。そして、まさにそれ故にこそ彼女たちはかくも魅力的なのである(*3)。
『ティンクル☆くるせいだーす』のアゼルルートなどでは、セックスシーン以外ではさほど氏らしい色は出ていないようにも思うが、幼いながら屈折しているアゼルの心情を描くことにはかなりのリソースを割いている。反復と変奏によってプレイヤーはじらされつつ、彼女が少しづつ心を開いていくのを発見することになる――そう、アゼルも確かにファム・ファタルだ。それも、とても魅力的な。
 迷宮はヒロインの心のなかに存在し、それゆえに丸谷氏は選択肢にもそれを反映させるべく複雑な分岐を構築する。
 なお、氏が複雑でわかりづらい選択肢を用意しがちなのはその究極たる『仏蘭西少女』に明らかではあるが、『遙かに仰ぎ、麗しの』や『神聖にして侵すべからず』においても同様であったのはプレイした方なら頷いて頂けよう。
 その『仏蘭西少女』に関しては『女郎蜘蛛』において半ば成功し半ば失敗した理想を実現しようとした結果、あのような迷宮が出来上がったと考えているのだが――『女郎蜘蛛』制作を巡る修羅については丸谷氏のブログを参照されたい(*4)。
 反復をただの反復と思わせないための試みがいつしかテキストの迷宮を生む――『仏蘭西少女』について言えば、あるいはそれは一線を超えて過剰であったのかもしれない。エロゲー批評空間におけるマルセル氏のレビュー(*5)、あるいはDG-Law氏のブログにおけるレビュー(*6)などで批判されている部分はそれぞれ頷けるものだった。個人的にはひたすら迷宮に浸り、踏み迷えばよいというスタンスは評価したいが――それを念頭に置いたとしても、いささかプレイアビリティに欠ける感は否めなかった。
 すなわち、丸谷氏をもってしてもこの反復と変奏という技術はしばしば暴走するということであり――バランス感覚を持ったディレクションの重要性を改めて示している、とは言えるかもしれない。
 では――丸谷氏と、氏のシナリオをうまくコントロール出来るディレクターが揃った時、これら反復と変奏によって描かれる主人公とヒロインの関係は、果たしていかなる場所に辿り着くのか?
 次項では、最新作を通して丸谷氏の求めてきたものを推測してみることとする。


3.神聖にして侵すべからず〜王国の内と外


 そう……全部。なんて楽なんだと思った。
 だけど、逃げ込んだ先は、矢っ張りただ逃げ込んだ先で、
 その先には何もなかったんだ……
――『神聖にして侵すべからず』国友澪里ルートより


 PULLTOPの最新作『神聖にして侵すべからず』は丸谷氏がメインライター、朝妻ユタカ氏がディレクターを務めている。
 ゆのはな以来、PULLTOP朝妻ラインには常に丸谷氏の名があり、その意味では氏はこのラインの底流あるいは基礎を支えていたとも言える。ハッピーエンドであることを約束しながらも、しかし単純な二項対立や勝利では終わらない――それは本作も同様だ。
 情報が無いので断言は出来ないが、瑠波と操はほぼ最後まで氏のコントロールの元書かれたものだろうと思われるし、澪里もおそらくそうだろう。希についてはテイストが違いすぎるのと分岐が早めに設定されていることから、おそらく十睡氏がメインで書いているのではないかと思われる(あくまで未確認だが)。
 その希ルートの評価は難しい。本作では王国の中に対する外というカウンターパートには澪里と操がすでに鎮座しているので、虫姫という奇策(?)を採用した事自体は問題なかったと思われるのだが、とにかくお話のトーンが違いすぎた印象である。伊藤ヒロがしばしば描くようなキャラクターの極端さで勝負する異形の恋愛まで突き抜けられればまた違ったのかもしれないが、もしそうなっていたら従来のPULLTOPテイストとは乖離していたかもしれない。しかし、普段の丸谷氏に合わせるのであればかえって異形に振ったほうがよかったのでは、とも思われるのだが――とりあえず、本稿においては希以外の三人を中心に見ていくことにしたい。 

 いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である 
――ロラン・バルト「表徴の帝国」より


 どのルートであれ、物語の中心にあるのはファルケンスレーベン王国そのものである。澪里のお話であっても、そこにあるのは王国の内と外がどう付き合っていくか、どうすりあわせていくか、という作業抜きには終わりまでたどりつかない。
 女王である瑠波のルートは『遙かに仰ぎ、麗しの』榛葉邑那ルートと鏡写しの関係にある。邑那と燕玲が築き上げたふたりだけの王国のそれは再演であり別解だ。 そして瑠波ルートの鏡写しである操ルートでは邑那ルートにおける司の役割を操が果たしている、ということになろうか。
 そして、どちらのルートにおいても空虚な王国に新たな意味が、あるいは内実が付加されることで物語はハッピーエンドを迎える――そう、神聖にして侵すべからざるものはそもそも「空虚な中心」であった。しかし、空虚だから、かたちがないから無意味無価値というわけではない。バルトがかつて皇居を指して評したのとは異なる意味に変えられてはいるものの、丸谷秀人もまたかたちのない王国は、それでもなお確かなものとしてそこに在ると――そうプレイヤーに告げるのだ。
 では澪里ルートはどういうものだったか、と考えると――個人的には、澪里ルートこそが本作における氏の挑戦だったのだろうと思う。『遙かに仰ぎ、麗しの』で無理やり当てはめてみればコミュ障の彼女は通販さんあたりになるのかもしれないが、澪里の描き方はむしろ『ティンクル☆くるせいだーす』のアゼルに近いし、ルート内のあれこれは『しろくまベルスターズ♪』のきららルートにおける将来への不安への対処をもう一歩押し進めたものと言えるだろう。テーマそれ自体は使い古されたものではあるのだが、本作においては丸谷氏らしいテキストによって一般的な萌えゲーと後味の異なるお話となっている。
 どのルートもお話自体は間違いなくハッピーエンドだ。しかし、そこにたどり着くまでの道筋はけして綺麗事ばかりではないし、良い人もただ良いだけの人ではなく、また悪いだけの人もいない。顔の無いサブキャラを大量に駆使して風景を構築するのは氏の得意とするところだが、本作においてもゆのはな町のように、分校のように、しろくま町のように――猫庭の住人は太郎丸をも含めて全員がいきいきと動きまわっている。主人公とヒロインはお話の中心に確かに居るのだが、それでいて主役は彼らではなくむしろ彼らをとりまく世界そのもの――そういう印象すら受ける。
 そして、主人公とヒロインが反復と変奏のなかで関係を深めていく内に、彼らをとりまく世界も少しづつ変わってゆき、その変奏の一部となっていく。あるいは、変わらないことによって逆に二人の関係性の変化を際立たせる。
 前者は瑠波ルートや澪里ルートであり、後者は操ルートである――本作においてはそう言うことも可能だろう。
 二人の関係が世界を変えるのか。二人が変わったから世界が変わって見えるのか。二人が変わらなくても、変わっても、世界は勝手に変わっていくのか。あるいは変わらないのか。
 それはどのルートでも答えの異なる問であり、結果も可能性も単一の価値観では言い尽くせない。
 唯一絶対の正答はどこにも存在しない。しかし二人は彼らの答えを選んで先へ進む――それが彼らのハッピーエンドだ。
 その先はわからない。しかし、今この時、この場所では確かにそれは彼らの正答だったのだ、と。
 丸谷秀人が描こうとした答えとは――辿り着くべき場所とは、そういうものだったのではないか。 

 ――ともあれ、本作はいつもの雰囲気を引き継ぎつつ、それでいて焼き直しではないというまさに「ライター丸谷&ディレクター朝妻」の手がけたPULLTOPらしい作品だったと――僕はそう思った。
 朝妻氏がPULLTOPを去るにあたって、本作を遺してくれたことに感謝したい――そしてそれを支えた丸谷氏をはじめとする制作スタッフにも、また。
  

4.猫庭の世界〜入れ替わる内と外、そして彼らの居場所


 ねこの森には帰れない ここでいいひと見つけたから
 ねこの森には帰れない なくした夢は もどらない
 ――谷山浩子「ねこの森には帰れない」より


 さて、前項の途中で述べたように、丸谷氏は顔のないサブキャラクターを大量に投入するシナリオライティングを得意とする。
 ある種のプレイヤーにとっては、こうした手法は話作りにおいて楽をしているように見えるかもしれない。あるいは逆に無駄な余剰と映るかもしれない。そもそも無駄といえば先述の反復と変奏にしても、物語の結論や骨格のみをひたすら求めるプレイヤーにとってはあるいは冗長と映るかもしれない。
 冗長、というのは氏のシナリオにしばしば与えられる批判である。確かに、顔のないサブに世界の善意や悪意を振り分ける方法と、限定された人間だけで回してそれぞれに役割を振る方法を比較してみると、演劇と見た場合、あるいはシナリオ構造のシェイプアップという観点からは後者のほうがより洗練されているし、リソースの管理方法としても無駄がない。反復に関しては言わずもがな。
 しかし、丸谷秀人においてはその無駄な余剰にこそ世界が宿っているので、そこを切り離して氏の作る物語は語れないと僕は考えている。わかりやすい例としては前述の通販さんというキャラクターがいる。最初は顔もない予定だったのが存在感がありすぎて立ち絵が追加されたという(本当かどうかは知らないが)キャラだが、彼女は実のところ邑那ルートでそれなりに出番があるとはいえ、決定的な役割を果たすというわけではない――しかし、終わってみると彼女のいない分校組のルートは確実にひとつ色を欠いたものになっていたろうと感じさせられるのだ。 
 彼女と分校サブ組の存在は分校の閉塞と、しかしその中でなおしたたかに生き抜く彼女らのたくましさ、可愛さをより広がりのあるものとしてプレイヤーに実感させてくれる。
 では、その冗長さ――余剰を排除しないことによって担保される世界観、価値観というのは果たしてどんなものだろうか。
 以下、氏が過去のブログでゲームシナリオについて述べている部分を抜き出してみたい(*7)。

 正直な所、俺には一貫したテーマとかも無いし、世の中に訴えたい事があるわけでも無いんです。だから『たま』かな? と言った訳です。 基本的に奇跡とか信じてないし、愛が全てを救うとも思えないし、友情は無い、とは思わないけど、相手に期待しすぎるのは傲慢だと思うし、裏切られたら怒るのは当然だけど、人間にどこまで強さを期待していいのか解らないし、宗教を信じるのは自由だと思うけど他人に押しつけられるのは嫌だし、純粋な善人は、純粋な悪人と同じくらいおぞましい絵空事だと思うし、輪廻転生を繰り返す恋人達とかも道具立てとしては嫌いじゃないけど、結局は本当の所昔の相手が好きで、今目の前にいる相手はどうでもいいのか? と思ってしまうと滅茶苦茶不実な感じで好きになれない。 純愛とかも実は良く解らなくて、色々な愛があるだけだろうと思うし、親子関係だって無理矢理修復する必要など無い場合だってあるだろうし、敬われなくて当然の親だっているだろう。 こういったモヤモヤを抱えているので一つのメッセージに結論づけるのには抵抗があるのです。それゆえに、俺はゲームの持つマルチシナリオ・マルチエンディングという性質に強く心引かれてしまうのです。 実は『犬』以外のゲームは全部マルチエンドなんですよね。
 他人が作ったゲームをする場合は別で、俺は結構簡単に泣くし、余り過度な物でなければ、奇跡が起こってもOKで、感動さえするんですが、自分でシナリオ書いていると信じられない物はやっぱり信じられない。個人的な理由や情動が無くて大義の為だけに行動する人間は書いていて信じきれない。俺自身が信じきれないキャラクターは書くことが出来ないので、結局、個人的な欲望を抱えた人間達が右往左往するばかりになる。 だから恋愛物が好きなのでしょう。なぜなら恋愛は究極的な個人と個人の情動の絡み合いを書く物だから。それがSMになったりすると『女郎蜘蛛』になり、馬鹿が入ると『MAID iN HEAVEN』になる。 この世にあるのは個人と個人の状況に応じて変化する関係性の網の目で、それが縮まったり広がったりほつれたり破けたりして、そこにドラマが生じたりする。そういう事だと思っている。全ては個人と個人の関係に収斂していく。 それを見つめて追い掛けて俺はシナリオを作っていく。
 これが一貫したテーマといえばテーマかなぁ。


 もし俺がそれ以外のテーマを無意識に持っているなら、それはシナリオを組み上げて、キャラクターを捕まえて、手探りして作り上げていく後についてくる物だと思っている。


 このあたり、言葉をかえて氏のブログでは繰り返し示されているテーゼだが、それはそのまま冒頭にあげた言葉と重なる。
 丸谷秀人の紡ぐ物語においては、無条件の正義も邪悪も存在しない――いや、どちらも主人公やヒロインの視点においては存在するのだが、それが世界から無条件に肯定あるいは否定されることはない。それは容易く内と外、表と裏が入れ替わる程度のものであり――その時は強固に見えたとしても、全体から見るとあくまで限定的な、永遠とは無縁のものだ。
 『神聖にして侵すべからず』でも『遙かに仰ぎ、麗しの』でも『ゆのはな』でも、氏の描く「心地良い場所」はけして永遠のものではない。 かつて誰かが「えいえんはあるよ」と言ったが――それもまたあくまで夢であり希望としてのそれにすぎなかったように。
 丸谷秀人の描くハッピーエンドはあくまでも世界を切り分けることを前提に成立する。 
 鳳華女学院をとりまく状況は最初から最後まで邪悪と欺瞞の塊だし、ゆのはな町にしてもしろくま町にしても、心地よい街の外側にはとりたてて厳しくはないにしろより現実的な世界がある。猫庭にしてもそれは変わらない。『SEXFRIEND』にしても、早瀬をとりまく世界は殺伐というほどではないにしろけして善意に溢れた世界ではなかった。
 しかし、限定された、追いつめられた彼らにとっての最初の、あるいは最後の優しい場所だからこそ、そこは楽園なのであり、守るに値する彼らの永遠なのだ。彼らの世界において前述の余剰は一時避難場所の役割を果たしているが――時に優しいモラトリアムであり、時には冷たい現実から逃げた先の虚無であるそれもまた、光のあてかたで見え方が変わってしまうものとして扱われる。
 そして、彼らが居場所を守るため――あるいは創りだすために生じる闘争もまた、どちらかというと折衷的なやりかたで解決されることが氏のシナリオライティングでは多い。無抵抗の敗退はしないがさりとて無条件の勝利や幸福はない。何かを得れば何かを失い、何かを守ろうとすれば何かが破れる。
 この作品世界が優しいのは、その外側は優しくないからで――だから、こんな世界に在ってほしいのなら、守りたいのならばお前も何かを賭けろ、と。内と外があり、表と裏があるのなら――自分たちで入れ替えてみせろと、裏返してみせろと。
 優しい世界が欲しいのなら、それは自分で見つけ出すしかないのだと。
 物語には常に余白があり、世界には常に余剰があるのだから――どこかにはきっと見つけられる筈だ、と。
 氏の作品を読むたびに、僕はそんな気分にさせられるのだ。


5.夏の日のオーガズム〜耽溺する恋人たち


  明日の朝運んで下さい。ぼくんところに届けてください。ぼくたちの部屋をいっぱいにするように。
  ユリの花、白グラジオラスの花、バラの花、そのほかの白い花をうんとこさとね、
  それにまた特に、真赤なバラの大きな花束もね……
――ボリス・ヴィアン「日々の泡」より


 さて、この私論を締めくくる前にもうひとつ――丸谷秀人の描くエロスについても触れておきたい。
 SM、いちゃらぶ、純愛、レイプ、童貞ゆえの失敗――ベテランだけあって氏が描くシチュエーションは非常に多岐にわたり、シリアスもギャグも同一線上でこなせる手腕はさすがの一言である。前述の反復と変奏の手法も多用するがゆえに手癖めいたフレーズもたまに出てくるが、慣れてくるとそれすらギャグに見えてくるし、実際ギャグとして反復を利用する場面も多々見られる。
 で、ファム・ファタル的な振る舞いを見せるヒロイン――何を考えているかわからない不透明な彼女、というのはそもそも僕の好きな造形なのだが、そうしたヒロインを描くのが得意なシナリオライターは他にもいる。以前僕がとりあげたJ・さいろー氏や木之本みけ氏もそのようなライターだった。
 彼らと丸谷氏を比較してみたとき、共通するのはセックスに耽溺することによって初めて彼女らのほんとうの顔が見えてくるような、そのようなテキストの置き方である。ただ、前者二名の描くヒロイン達は普段猫をかぶっている少女がセックスのときだけ心をさらけ出すような二重人格的なところがあり、わりと切り替えがはっきりしているように思う。一方、丸谷氏の『SEXFRIEND』や『遙かに仰ぎ、麗しの』などではセックスをいくどとなく繰り返すことによって、少しづつ少女の心に、その迷宮に分け入っていくような手法が採られており、彼女たちの遷移はどちらかといえば漸進的だ。その意味では氏の描くセックスシーンとは、少女を描くための核心ではなくあくまでもその前段階、彼女たちの迷宮を攻略するための手段のひとつなのだろう。
 いずれにせよ、反復される耽溺は愉しく、同時にどこか虚しく――それ故に焦燥を誘う。
 先に進むためには耽溺してはいけないと思わせつつ、同時にずっとここに浸っていたいという矛盾を抱えさせる。 
 終わらせたくはないけれど、いつかこんな停滞は終わらせなければならない――そういう矛盾した感情をエロスによって喚起することに、氏はすぐれて意識的なシナリオライターであると言える、かもしれない。


6.おわりに


 君のこといつも見つめてて 君のことなにも見ていない
  
――ムーンライダーズ「9月の海はクラゲの海」より



 丸谷氏は自らのブログ「新エロゲーとわたし」で以下のように述べている(*8)。


 もし、俺が彼女を助けるコトで、湖に小石を投げ込んだ時のように全てが変化すれば、彼女は単なるフラグとカウンターの塊にはならず、俺にかかった魔法はとけず、彼女は俺の中で死ななかったハズなのだ。
 でも、それは無理だ。
 どんなに楽しいキャッチボールをしていても、夕暮れがいつか来て遊びは終わる。何もかもを望む事なんかできないのは知っている。
 それでも。
 どんな行動を選んでもそれが反映され世界が変化するゲーム。
 ゲーム中に登場する彼女達彼ら達が、フラグとカウンターの塊には決して見えないゲーム。
 世界の幅の自由さを守るためには、当然、エロが可能でなければならない。
 そんなゲームを俺はプレイしたい。
 贅沢な要求だと言うコトは判っている。だだっこの夢だ。
 そして、俺自身制作側の人間である以上、俺の要求は全て俺に返ってくるのだと言うコトも判っている。全ての要求を満たすコトが出来ないコトも判ってはいる。制作期間、費用、人員、そして何よりも俺の能力が、このだだっこの夢のはるか手前で、俺を墜落させる。
 何本もシナリオを書いてきたけど、いつも失敗する。
 遙か手前、ゴールすらみえない地点でいつも転ける。
 でも、だだっこの夢を忘れてはいけないなぁ、と思う。
 なぜなら、それこそが俺が作りたいと思っている究極のゲームだから。
 辿り着けなくても走り続けるコトは出来るだろう。


 いつか、氏が辿りついた先に、それが在ることを願って――


 にゃんぐ!!
 ――『ゆのはな』高尾椿ルートより


 そんな感じで、とりあえず――思い出に。


2011-10-30 - 独り言以外の何か http://d.hatena.ne.jp/Su-37/20111030 (*1)
波状言論臨時増刊号 美少女ゲームの臨界点 元長柾木「回想――祭りが始まり、時代が終わった」P155(*2)
「きみといた夏は 何よりも素敵なもの」 HOTEL OF HILBERT http://atslave.at.webry.info/200706/article_19.html(*3)
丸谷秀人の部屋22〜25 http://www.pil-codepink.jp/stone/html/kaihatsu/kaimal/kaimal22.htm(*4)
マルセルさんの「仏蘭西少女 〜Une Fille Blance〜」の感想 http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki//memo.php?game=8026&uid=%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB (*5 )
nix in desertis:仏蘭西少女 レビュー http://blog.livedoor.jp/dg_law/archives/52028865.html (*6)
丸谷秀人の部屋26 http://www.pil-codepink.jp/stone/html/kaihatsu/kaimal/kaimal26.htm (*7)
新エロゲーとわたし http://www.pil-codepink.jp/stone/html/kaihatsu/new-mal/new-mal.cgi?txt=7 (*8)

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