創作「A Change Of SeasonsⅢ」

-ChapterⅢ-

――風が吹いた。
「あわわわ」
一人の少女が風にあおられたか、よろめいて車道にふらりと出て行きそうになる。
後ろを歩いていた少年が咄嗟に腕を掴み、彼女を歩道に引き戻した。
「おっと……大丈夫かよ?」
「――あう?」
少女の体は拍子抜けするほど軽くて、簡単に元いた位置に戻ってきた。まるで振り子のようだ。
「お?随分軽いなあんた。飯ちゃんと食ってんの?……聞いてる?」
瞬きを繰り返す彼女。まだ状況が飲み込めていないようだ。
何処かのジムからの帰りだろうか、大きなスポーツバッグを抱えている。
小柄でおとなしそうな子だった。服装も地味なジャージだ。首から銀のペンダントらしき鎖を下げているが、胸元はジャージで隠れて見えない。背格好からすると小学校高学年――いや、中学生ぐらいだろうか?
ややあって、何があったかようやく気がついたらしく、顔色が信号機のように青から赤に切り替わった。
「あっ……ああありがっ……ありがとうございましたっ!」
少女は真っ赤になってどもりながらお辞儀をすると、そのまま目の前のビルの中に走っていってしまう。
「あーん?」
赤毛の少年――柳沢太一は置いてきぼりにされた気分になる。
「俺……いい事したはずなのに、何か決まり悪ぃな……」
頭をわさわさと掻く。葉月には鬱陶しいからやめて、と言われる仕草だが、癖になっていてなかなか直らない。
「……よっぽど恥ずかしかったのかよ。しかし、本当に軽かったな?女の子ってのはみんなあんなもんかね」
うちの妹はあんな軽くねえと思うんだけどなあ、と彼は思って、そこで気づく。
「あれ、ここ……あの野郎の。あの子このビルに住んでんのか?」
やや考える。こないだ来た時、中は結構寂れていたと思ったが意外と住人は多いのだろうか。
「……ま、いいか、どうでも」
――そういえば葉月の奴、あれ以来顔出さなくなったな。
この頃は、暇になると最近できた友人のところに出かけているらしいが。
「変な連中でなきゃいいんだけど……なあ」
ロクでもない連中とつるんでいる自分の台詞ではないが、兄としてはやはり気になる。
しかし、彼から見ても最近の妹は明るくなったように見えた。化粧も普通になったしドラッグも止めたようだ。
まあ、それはそれで良い事に違いないと彼は考える。
「ダチに影響されてんのかね?」
妹の友人は一体どんな奴なんだろう――と、太一は思った。
――さて、駅に程近い古ぼけた雑居ビルの三階に「柊探偵事務所」はある。
依頼人はけして多くは無いし、三階に他のテナントは入っていない。
いくつか見受けられる看板はすべて裏稼業が使うダミーか、既に倒産した会社のものだ。
故に廊下も事務所の中も静かなものだった。
……つい最近までは。
「……今日は普通に見えるな、お前」
軋む椅子にもたれ、古臭いスチール机に足を乗せた状態で携帯をいじりながら匠は葉月を見る。
あまり行儀が良いとはいえない姿勢だった。
「にが……はい?」
ソファに座って自分で淹れた紅茶をすすりながら、すでに日常と同化しつつある少女はなに言ってんの?という表情を見せる。ちなみに茶は当然ながら事務所の備品だ。故にティーバッグだ。
多分漬けすぎたのだろうが、ただのティーバッグで一線を越えて不味くできるというのも一つの技術だろうか。
……それとも単なる貧乏性か?
「匠も冷めないうちに飲みなさいよ……で、何だっけ?」
「薬はやめたのか、と聞いた」
「えー?ああ、もうすっかりシラフだかんね」
最近ずっとやってないよ、と葉月は言う。「お金もないし」とあっさりしたものだった。
「……ジャンキーになる前に抜けられて良かったな」
「ん……そうかもね。しばらくダルかったけど最近乗り切ったかな?――今は体調はいいわよ。まあ、きっついケミカルでもなかったし」
と、ティカップを置いてから匠の机に身を乗り出してきた。
「それより聞いて聞いてよ!また現れたって『胡桃割り』。今度は女子高生、そっれも二人一ぺんよ?。しかも段々現場がうちらの高校に近づいてんのよ。これって怖くない?」
「……兄貴とその取り巻き連中は今、どうしてる?」
「兄貴たち?アンタのせいで怪我人だらけになったのとやっぱり犯人が怖いみたいで、チームでつるむ事は少なくなったみたいよ?だけど兄貴は一人でいろいろつてをたどって調べてるみたいね。絶対見つけ出してやるとかいってるわ。正直馬鹿みたい、って思うけど」
端末でニュースをちらりと見てから、匠は葉月に向き直る。
確かに、現場は近づいている――「この事務所」にも。
「……真面目な話な、兄貴にはこれ以上、首突っ込まないように言っとけ」
ただの連続快楽殺人とは違う――と匠は感じていた。仮に「選別」とかかわりがあるとすれば、「胡桃割り」はいずれ匠たちの前に現れるはずだった。
一般人にすぎない葉月たちが深入りするには、単に殺人者であるという以上に危険すぎる相手。
「そりゃそうでしょうけどー。言っても聞かないんだもん」
「お前の親は何も言わないのか」
「んー。母さんはお水で昼は爆睡してるしオヤジなんてもう十年は見てないし」
なかなかウチも微妙な家庭なのですよ、と葉月は自嘲するように笑う。
「母さんを心配させたくもないしね」
口調こそ明るいが、あまり触れたくはない話題のようだ。
匠が何か別の話をしようかと思ったとき、ちょうど良く玄関が開いた。
「ただいまです。あ、葉月さん、こんにちは」
ソファに陣取る客を見つけても、弥生に驚いた様子はない。
彼女もいつのまにか、葉月がいる状況にすっかり慣れてしまったようだ。
「あー弥生ちゃん、お帰りー!」
まあ、あれから二日と空けず彼女が顔を出している以上、むしろ当然とも言えた。
何故か弥生も懐いており、最近は弥生の部屋で葉月が長居することも多い。
匠としては葉月に仕事の邪魔をされなくて有り難い、と言いたいところだが、実際のところ邪魔されるようなデスクワークは皆無である。収入と経費の管理は弥生がやっているし進行中の調査も今はない。
まあはっきり言って暇なのだ。
――財布の中身だけは段々心配になってくるが、弥生がまだ何もいってこないので大丈夫だろう、と高をくくっている。残高が心もとなくなると、弥生は通帳のページを開いて机の上に置いてくれる。で、おずおずと切り出すのだ。
「あの、匠さん……お仕事、無いですか?」
黙っていると弥生のこと、自分が働くとか言い出しかねない。
「……営業努力します」
よって、匠は常にそう答えるしかないのだった。
「お願いします」
苦い紅茶をすすりながら、そんなことを思い出している間にも葉月と弥生の会話は弾んでいる。
「なんか顔赤いわよ?」
「そんなことはないのです……たぶん」
「そのかばん、ずいぶん大きいわねー。何入ってるの?」
「これは着替えなのです」
「着替え?ああ、今日は病院で検査とか?」
「いえ、検査ではなく……」
葉月は弥生の汗の臭いに気がついた。激しい運動をしてきた後のような感じだろうか?
くんくん、とついかいでしまう彼女に弥生も気がついたらしく「……シャワー浴びてきます」と頬を赤らめて、そそくさと浴室に消えてしまった。
「通ってる病院って遠いの?」
いや、と匠は否定。何故そんなことを聞く?と逆に尋ねる。
「ん――。そもそもなんでクスリやめたかっていうとさあ。この前、やめたほうがいいって弥生ちゃんにも言われてさ。取り返しがつかなくなってからじゃ遅いって」
「全くもって正論だな」
「――そうよね」
葉月には何か思うところがあったらしい。ややあって匠に質問をぶつけてきた。
「……弥生ちゃんってどこが悪いの?」
匠は葉月の眼を一瞬見た後――出来る限り正直に答えた。まあ、それ自体は葉月に隠す理由は無い。
「昔、足を悪くしていてな。今は歩けるが定期的に診察を受けることになってる」
「そうなんだ?じゃあ、今は健康なのね?良かった」
それを気にしていたのか――成程、と匠は合点がいった。
「そか。いつも落ち着いてる子だなあと思ってたんだけど、普段走ったりしないのはそのせいなの?」
あの汗もそのためだろうか、と葉月は思った。長い距離を歩くだけで疲れるのだろうか?
匠のそれに対する答えはやや曖昧だった。
「落ち着いてる、と言われるのは弥生も喜ぶと思うがな」
走らないことについてはあまり触れるなと言うことらしい、と葉月は受け取る。
「そう?ならそういう事にしとこうっと」
そうしてくれると有り難い、と匠は返す。
正直な所、別に弥生は走れないわけではないのだが、それを説明するといろいろややこしいので面倒なのだった。
――そこに踏み込まれると、隠しておくべき部分にも触れなければならないから。
さて、それはともかく、葉月としては匠自身についても聞きたいことはあるのだった。
出かけるつもりなのか机の上を整理しだした匠に、とりあえず数日前から気になっている事を問いただす。
「ねえ匠。首から下げてるの、十字架?」
ああ?という顔で頷く彼に質問を続ける。
「アクセサリーにしちゃ本格的よね。弥生ちゃんもしてたけど。二人とも、えーと、クリスチャンなの?」
弥生が首から下げている銀の鎖に小さな十字架が付いているのを、葉月は先日見ていた。
匠も似たようなペンダントを持っているのを葉月は知っている。観察した限りでは、彼も大体毎日付けていた。
「……弥生はな。俺にとっては、ただのお守りさ」
匠はクローゼットからなにやら取り出そうと背を向ける。ふ―ん、と葉月は胡散臭そうにその背を見つめた。
……意外と肩幅広いのね、こいつ。
仕草は年寄り臭いけど、体は結構鍛えてるのかしらん。
「お守りねえ。どっちにしてもアンタは信心深いヒトには見えないけど――」
と思って全身を改めて眺めていると、別の事に気づいた。
手の甲に、妙な形の古傷がある。よく見ると両手にあるようだった。
「ねえ、その傷って――」
振り返った匠はくたびれた上着を羽織っていた。どうやら本当に出かけるつもりらしい。
「何か言ったか?」
「あ、いや、後でいいわ……今日は手袋、してないのね」
こうしてちょっと離れて、改めて匠を見るとやっぱり、ハードボイルドな感じに見えなくもない。
――あれ?こいつ、思ってたより格好いいかも。
少しだけ、葉月はどきりとする。
「ああ?変なとこに気がつく奴だな……洗濯中だよ。ちょっと出てくるから、弥生と話していくならついでに留守番頼む」
……はて、あれは薄手の皮手袋じゃなかったかしらん、洗っていいものなの?
葉月は、最初に会った日の光景を思い出したりもして疑問を抱きながらもとりあえず。
「へーい。なんかおみやげ―!弥生ちゃんも期待してるわよ」
買出し任務を与えてみた。匠は一瞬じろりと葉月を見たものの、諦めたらしく両手を挙げる。
なんだかんだ言っても、彼は弥生がからむと甘いのだということを葉月はすでに学習していた。
「はいはい、菓子ぐらいなら。今月はそんなに余裕ないんだがなあ……」
「寧日堂のショートケーキがいいなっ」
「……何気に高い店を指定するなよ」
ぶつぶつ言いながら匠は出ていった。らっきー、と葉月はその背中に軽く舌を出す。
ややあって、弥生が浴室から出てきたので葉月も一緒に居間に移動する。先日弥生が事務室のほうを覗いていた部屋だ。
シャワーから出たばかりの弥生は大きめのTシャツをかぶり、下は下着のみという匠にはとても見せられない姿。
……いや、ひょっとして普段からこんな格好を見せてるのかしらん?
なんかこの子変に無防備だし。そもそもそのTシャツは誰の?と葉月は問い詰めたくなるのを必死で自制した。
「……何故に上から下まで舐めるような視線で見るのですか」
弥生が葉月の視線に反応する。鈍いようで意外と鋭い子よね、と葉月は思う。
「いやいやいや。それにしても年寄り臭いわよねえアイツ。ホントに二十四かしら」
それとなく匠の話を振ってみる。弥生は頭にタオルを巻いたまま首をかしげた。
「……年齢は真実だと思うのですが」
「絶対嘘よお。だってあいつ、普段から親父っぽいと思わない?枯れてるっていうか」
ぶんぶん。弥生の頭から水滴が飛び散った。あれ?彼女、怒ってる?
「匠さんは二十四歳なのです。間違いないのです。たとえ若く見えなくてもまだ若いのです」
どうも必死に弁護しているように聞こえるので、葉月は少々追求が必要と判断した。
「……弥生ちゃん、ちょっとここに座って。正座ね」
「……はあ。何でしょうか」
応接のよりもだいぶくたびれたソファの上――弥生がちょこんと正座したところで詰問開始。
「いっつも匠さん、って呼んでるの?」
「そうですが、それが何か」
「あんなのを?」
ぶんぶんぶんぶん。また水滴が飛んでくる。
しかも今度は顔を真っ赤にして、さらに両手で×を作っていた。
「……あんなの、ではないのです」
しかも怒っているというよりむしろ照れているようにも見えたり。
――嗚呼。これはひょっとして本気ですか、と葉月は衝撃を受ける。
「あー……そなの?」
こくり。
弥生は赤くなったまま無言で頷いて下を向いてしまう。
正直なところ、その事実よりこんな仕草を見せる少女がまだ存在したことに葉月は呆れてしまった。
「先生、乙女がここにいましたよーレッドデータアニマルですよー絶滅危惧種ですよー」
「乙女?」
 横を向いて半分白目のままけっ、と呟く葉月に弥生が不思議そうに聞く。
「あーいや、弥生ちゃんはいいのむしろそのままの君でいて」
はあ、と溜息をつく。なんでこんな可愛い子があんなのに、と思ってしまう。
刷り込み?それとも遠大な光源氏計画かしら?
……いや、匠も見た目だけなら確かにそんなに酷くはないけども。
自分もさっき、どきりとしたぐらいだし――
「ちなみに風呂上りっていつもそんな格好なのかな……なのかな?」
「だいたいそうです。冬の晩は湯冷めするのですぐパジャマに着替えますが」
「はあ。……で、そのTシャツは誰が買ったの?」
「……匠さんのお下がりと買ってもらったのと、半々ぐらいです」
――また赤くなりやがったよこのアマミノクロウサギは。
匠、正直アンタよくこの子の前で自制してるわねちょっとだけ見直したわ。いや対象外ならそれはそれでノーマルなんでしょうけど私なら?いや、でもお下がり!男物のお下がりってどうよそれ?兄妹でもそんなんありえるのん
か?やっぱり匠は変態?ていうかむしろ弥生がそれを着るのに抵抗がないのがどうなのかと――
「葉月さん……ヨダレがたれているのです」
はっ、とそこで我に返ったが、葉月には太一のお下がりを今の自分が着る図はとても思い浮かばなかった。
小学生のころならともかく。
「えあ?ああゴメンね。ちょっと別の世界に行ってたわ」
気を取り直して今度は弥生の部屋に移動。改めて匠について聞いてみることにする。
とにかくこの二人には妙なところが多すぎる、と葉月は勝手ながら思う。
「匠の手の甲にある傷って、昔から?」
弥生はいつのまにか部屋着に着替えている。下着が見られなくなって葉月が舌打ちしたのには弥生は気づかなかったようだ。否、そもそも葉月の無駄に鋭い視線にも気づいているまい。
冷たい豆乳をこくこくと飲みながら弥生は首をかしげる。
「何故そんなことを聞くのです?」
「いや、今日たまたま気づいたんだけど……なんか変な形じゃない?」
葉月がすすっているのは黒豆ココアだ。この事務所には微妙にハズした飲み物が多い、ということに葉月は先日気づいたのだが元凶はどうやら弥生のようだ。健康志向なのかしらん。
「わたしも良く知らないのですが、昔からあるのです」
「昔って、いつごろ?」
「二年前からですね。初対面の人に会うときは、大体手袋をはめています」
「ふ―ん。そんときに初めてあいつに会ったの?」
「ええ。わたしが当時いた孤児院で」
「え、孤児って……そうだったの?えーと、そこで一目惚れ?」
げほんげほん。弥生がむせる。豆乳が少し出た。あ、鼻からも少し出てる。
葉月の脳のどこかで今度は爆発音が聞こえたような気がした。
ワシントン条約ってなんだったっけ、と突然頭に浮かんだ単語と世界の不条理について少々考えてみる。おかげで今彼女が得た弥生が孤児だったという情報はとりあえず脇に放り出されてしまった。
「……あう」
「あーあー、とりあえず拭こうね」
やっぱり絶滅危惧種を保護している気分だ。鼻と口の周りを拭ってやると弥生は更に赤くなっていた。見ているとむしろ葉月のほうがむずむずと恥ずかしくなってくる。
「えと……あの」
「いや、いいわ。その話はまたにしましょ」
葉月はもう呆れたというより疲れてきたが、とりあえず再び気を取り直して本棚を覗いてみると、奇妙なスペルの躍る本が目に付く。あまり見慣れない綴りのタイトルばかりだ。
「この本、何?英語じゃないわね……えーと、イタリア語とか?」
「こちらはラテン語で書かれているのです」
何処の言葉だっけか、と葉月の脳内ではクエスチョンマークが増殖。
とりあえず流れで驚いてみることにした。
「えー何かすっごーい!読めるの?」
「勉強中なのです。弥生は将来は翻訳家か通訳になりたいのです」
匠との関係から話題が逸れて弥生はほっとしたのか、説明する口調は滑らかだ。頁をめくってみても葉月には単なるアルファベットの羅列にしか見えないのだが。
「ラテン語って、えーと……昔のイタリア語だっけ?でも、今使ってる人なんているの?」
「ローマ帝国の頃の言葉です。現代では通訳で使うことはまず無いですが、弥生にはこれを勉
強しなくてはいけない訳があるのです」
「んー、歴史の授業で先生がなんか言ってたっけか。有名な人とか言葉とかある?」
「今でもラテン語のことわざが引用されることは多いですね。有名なのはCogito ergo sum(我思う故に我在り)とかAlea jacta est(賽は投げられた)辺りでしょうか」
と弥生は例を挙げて説明する。確かにその辺は聞き覚えが無くもない。
「後のは授業で聞いたことあるわ。ジュリアス・シーザーの言葉だっけ」
「正解なのです。ラテン語読みではユリウス・カエサルですね」
「へー。あれ、これは聖書?なんか一杯種類があるけど」
物色を続ける葉月に弥生は懇切丁寧に説明を続ける。普段話す機会があまり無い分、聞かれるのが嬉しいのかもしれない。
ふーん、とまた少し考える。聖書と十字架。……それに、孤児院。
「ねえ、弥生ちゃんがいた孤児院ってその、キリスト教関係の孤児院だったの?」
「ええ。院長さんはお医者さんでしたが、同時に敷地内にある教会の神父さんでもありました。それが何か?」
「クリスチャンって人はまわりにも居ないわけじゃないけどさ、あんま突っ込んで聞いたことがないからさあ。普段どんな生活だったのかなって」
真面目な顔をして弥生は少し考える。
「日曜のミサと朝夕の食事のときにお祈りがありました。ただ弥生は普通の家庭というものを知らないので、どれくらい普段の生活が違っていたのかはわかりませんが」
「ふーん。どーなの?程度の差はあるにせよ、みんなその――信仰が全て、だったりするわけ?自分の生活は全て神様のため、みたいな」
「そういう人もいるのです」
自分はそういう意味での熱心な信仰者ではない、と弥生は言う。
神様をただ信じるだけ、という生活は自分には出来ないだろう、とも言う。
「弥生には、やらなければいけないことがいくつかあるのです。信仰はその周辺を構成する欠片の一つなのです」
位置付けするならあまり行きたくない塾に行くようなものでしょうか――わたしは塾に行ったことはありませんけど、と笑って彼女は結んだ。
葉月は成程ねー、と思う。とりあえず考え方は理解できたような気がする。彼女の言う「やらなければいけないこと」も気にはなるのだがしかし、とりあえず一つこれだけは聞いておかねばなるまい。
「じゃ聞いていい?もしその信仰より大切なものがあるとしたら何?匠?」
ぼん、とまた弥生の頬に赤い花が咲く。あ、また乙女が。
「……個人の理解は人に押し付けるものではないですし匠さんだけが大切なわけでもないのですけどでも匠さんはホントに優しくてでもわたしのことは妹みたいなものだとよく言うしそれも嫌ではないのですけどしかしながら一応弥生も今年で十五歳に」
あ、解ったからもういいです。
まあ、あたしが誤解してるのかもしれないけどさ。
多分この二人ってこれでいいコンビなのね、と半ば呆れつつ話を変えようと手を机の上におかれた本に伸ばす。
「これも今勉強中なの?」
「七十人訳旧約聖書・私家版日本語訳」と書かれている。原題は――せぷてぃあぎんた、と読むのだろうか。早口言葉みたい、と葉月は独白する。見ると頁のあちこちに付箋がしてある。
「そこは未だ内容から勉強中なのです。翻訳を原文と照らし合わせるのに使っているのですが翻訳の意味がまず判り辛いのです」
ぱらぱらとめくるとエゼキエル書、イザヤ書という辺りに付箋が多いようだ。好きな箇所なのだろうか?聞いて見ると弥生は首を振った。
「いいえ。むしろ嫌いなのですが大事な章なのです」
大事。弥生の大事が何なのかは正直さっぱり解らないけれど、それは葉月の思う大事の範囲とそう違わないのだろうか。
例えば、友達とか、恋人とか。
それは信仰の大事さとどう違って、どう同じなのだろうか。
「……例えばさあ。さっきの信仰より大切なものって、あたしとかも入ってたりするのかな」
「はい!勿論」
弥生は即答した。真正面から葉月を見ている。葉月は不覚にもどきりとした。
「――葉月さんは、わたしの大切なお友達です。それはわたしの中の何ものとも矛盾しないし、状況によって変わるものでもないのです」
期待通り――いやそれ以上の返答。
感動というか何かいろいろと抑えきれない欲望?でふるふると葉月は震える――具体的には、抱きしめたいという感情。
「……可愛いよねー、弥生ちゃんって。はー……なんでこんな可愛いのかしらん」
ええい。感情の赴くままがばと抱きつく。
そうね――葉月は弥生の友達よ、と耳元で囁くと。
はい――と、弥生もおずおずながら抱き返してくれた。
「――気になっていることがあります」
「何?」
「お兄さんのことです。連続殺人の容疑者を探しているとか」
「ああ……あたしもちょっと困ってんのよね。止めさせたいんだけど聞きやしないし」
「出来れば、お止めになった方が良いと思うのです。匠さんからも言われているのですが」
「あー、まーそーなんだけどさー。ま、なんかあったら、助けてもらうかもね」
「はい。葉月さんのためなら――わたしは、戦いますから」
――その時は、葉月はさほどその返事を妙とは思わなかった。
ただ勇ましい言葉を使うんだな、ぐらいにしか思っていなかった。
だから――彼女の「やらなければいけないこと」が何なのかを、それ以上考えることも無かった。

ビルの外に出たところで、匠は電話をかけた。葉月に聞かせたい内容では無かったからだ。
携帯のアドレスには「灰村施療院」と書かれている。コール三回で相手が出た。
「はい、灰村ですが」
「……柊です」
「おお。元気かね、半年ぶりぐらいだったかな」
院長の声は嬉しそうだった。匠の口調も少し明るくなる。
「お陰様で。院長もお元気そうですね」
「何、あちこちガタがきとるよ。今日は突然どうしたのかね」
「夜羽に連絡を取りたいのですが」
「……それは、幼馴染の彼女かね。それともスティグマタの使徒たる彼女に、かね?」
「個人的な用は今のところありません。後のほうですね」
「なんだ、つれない男だな。しばらく会っていないのではないかね」
「別に苦手なわけじゃないですよ。弥生の件を優先しているだけです」
匠はごほん、と大げさに咳をして話をそらそうとしたが、院長はむしろ匠の反応を面白がっているようだった。
「……理由は聞かせてもらえるのかね」
「近辺で妙な動きがあります。ステアウェイがもう始まっている――あるいはこれから始まるのかもしれませんが、情報がまだ不足しています」
院長の口調が緊張したものに改まった。
「状況を今一度確認したいと?もしステアウェイだとしたら、やはり戦うのかね?」
「弥生がそう望むなら、それを支えるのが俺の役目です」
「……君から、その言葉を聞くことになるとはな」
「俺は、彼女の補佐役ですから」
「それだけかね?」
院長の声にはわずかながら彼を責める色があったが、しかしそれはすぐに消えた。
「いや、今は聞くまい。わかった、日本支部に連絡を取ってみよう。夜羽君も多忙なようだから、すぐ捕まるかどうか判らないが」
「ありがとうございます、先生」
「――今度、弥生と一緒に来るといい。家内も彼女の好きなパイを焼いて待っているよ」
「……伝えておきます」
続いて、携帯端末からとある情報サイトに接続する。
三重に設定された認証画面を通過すると、英字で「プロスペロ」とタイトルされたトップページにたどり着く。
「プロスペロ」は会員制の情報サイトであり、ここには通常の世界では表に出ない類の情報が集まっている。
玉石混淆ではあるが、三重のセキュリティチェックを抜けて表示されたこのページに記載される情報の信頼性は比較的高い――少なくともスティグマタの諜報部門である「エレミヤ」と同程度には。
「まだ聖化執行部――「エリヤ」からは通達がないが……だとしてもコンシーリオでは何らかの動きがあった筈……これか」
出所は東海岸の宗教関係者。二月末の情報だった。
「コンシーリオ出席者からの未確認情報――ステアウェイ、今回の開催地は日本でほぼ確定か――ね」
もう一つ。情報の出所はアメリカ海軍、太平洋艦隊。
「強襲揚陸艦一隻が密かに横須賀に向け出航――軍関係者以外も同乗との噂。任務は最高機密扱いのため追跡調査不可能、か――日付からして、もう入港していてもおかしくない、な」
日付は前者の数日後だった。
一つ疑問があるとすれば、少なくとも揚陸艦が入港する以前に「胡桃割り」が活動開始していたのは間違いない、という点だが――仮に「日本開催」と言う情報をこの宗教関係者より先に入手していたとすれば、単独で既に入国していたとしても不思議はない。
「――後は夜羽に聞くか」
葉月にケーキを頼まれていたのを思い出し、匠は歩き出す。
――こんな毎日を続けられるのも、あと少しかもしれないな。
そう思った彼は、短く溜息をついた後――首を振って憂鬱を振り払うと、ケーキ屋に足を向けた。
――そうして帰ってきた匠は何故か今、葉月に問い詰められるはめになっている。
「匠ぃ?」
「お前に呼び捨てにされる理由はないんだが」
弥生が晩飯を作るため奥に引っ込んだのを見計らい、匠を問い詰めてくる。
「うっさいわよ。手ぇ出してないでしょね?」
「何の話だ。弥生のことか?そんな訳あるか」
「出してんのね?いやらしー。変態ロリコン少女愛好者!」
「手を出している訳が無いだろうと言っている!」
「嘘くさー。なんかあの懐きぶりは怪しいのよね。絶対妙な理由があってアンタたちはそれ隠してるのよ。あんな可愛い子があんたを好き好きなんてどう考えてもおかしいもの」
「俺と弥生の間にどんな感情があろうとそれをお前に云々される理由は無いぞ……」
「ふーん……手を出してないのは本当みたいね。ちょっとほっとしたわ」
何故お前がほっとする、と匠が聞きとがめると、葉月は鼻をふん、と鳴らして返す。
「あたりまえじゃん友達だもん。あんなにうぶな子に強引に手ぇ出したらあたしが許さないんだから――いくら弥生ちゃんが可愛いからって一線越えちゃ駄目よっ!」
「俺はお前にどんな人間と認識されてるんだ……」
まだ聞き足りなそうな顔をしている葉月は矛先を変えてきた。
「――ねえ、あんたも昔はクリスチャンだったの?」
「もうそんなことまで話したのか?……そうだな、俺も昔は、弥生みたいに思ってたよ」
「ふーん、昔は?じゃあじゃあ、今はどうなのよ」
「信仰告白(コンフェッション)――『堅信』ていう段階があって、それは要するに神さまを一生信じ続けますって宣言することだが、俺はそれを棄却した。、まあ、信じる事を止めた、ってことだ」
「そうなの?何で止めちゃったの?」
「……そのうち、暇なときにでも話してやるよ」
「ずるいー!今知りたい!」
「誰でもささやかな秘密の一つくらい持ってるもんだ。尊重してくれるとありがたいね」
「ふーん?ま、話したくないなら無理には聞かないけどさ。でも、代わりにもう一個質問ね。両手の甲にある傷ってタトゥー?」
「これか?……そうだな、似たようなもんだ」
「さっき言ってた、その、止めた理由とかと関係あるの?」
「――質問は一個だったはずだが」
「同じ質問の続きですよーだ」
「……ある集団に属しているという目印でもあり、その信仰の在り方に対する戒めでもあり、同時に信仰者として失格の烙印でもある――そんなとこだ。カインの印って知ってるか?」
「訳わかんない。なにそれ?」
「辞書でも調べてみるんだな」
「なによケチロリコン変態!リアル光源氏!」
「お前……それは俺にも弥生にも紫式部にも失礼極まりないと思わんか?」
そんな馬鹿を言い合いながらも。
葉月には匠の手に刻まれた傷――それが、何故か十字架のように見えていた。

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