創作「A Change Of SeasonsⅣ」

-ChapterⅣ-

「ああ、ラテン語?ほぼ死語だろそりゃ。いまどき日常会話で使う奴なんていねえよ」
柳沢太一は妹の発言を笑いとばした。
「そーなの?」
「ああ。映画とかで見たことあるけどよぉ。ヨーロッパのインテリが昔の本を読むために覚えるとかそんな感じだぜ。で諺をそれでバシッと披露するとかよ」
「覚えてるとか引用できるとか、そういうのがステータスってこと?」
「そういうこと。教養人の嗜みってやつかあ?。しかし頭いいんだなその子。今度会わせろよ」
「やーよ。また匠と喧嘩するもん」
たまには兄妹二人で街まで買い物に――出たのはいいものの、いつのまにかこんな話になっていた。
何でだろう、と思う一方で、あの二人の話をするのが楽しい自分にもどこか納得している葉月。
「ちっ。その子が葉月のダチなら探偵とだって喧嘩は控えてやるっての。ムカつくけどよ……だいたい何だよいつの間にそんなに仲良くなりやがってよ?」
「いいじゃん別に。兄貴に役立ってるじゃない?」
「……まあな。気にいらねえのは変わらねえけどよ」
話を聞くにどうもこないだの少女が葉月の友達ではないか、と太一は思うようになっていた。
「――まあ、確かに人の良さそうな子だったけどよ」
ぼそりと呟く太一に葉月は意外そうな顔をする。
「兄貴、弥生ちゃん見たことあったっけ……って?」
何かを感じて、葉月は立ち止まった。
裏通りの影をゆっくり歩く男――その足取りに目が留まる。
動作がどことなく変だ。歩き方自体は比較的しっかりしているものの目的地があるような感じではない。
何かを探しているかのようにゆらゆらと視線が泳いでいる。
服装も明確ではないが何処かが奇妙だった。薄汚れている割に、くたびれた感じに見えない。
それに、袖や裾の黒っぽい汚れは――?
葉月は突然寒気を感じて――自然と小声になる。
「ねえ――兄貴。あの外人、なんか変じゃない?」
ああ?と太一も見て、気づく。胡桃割りが外国人ではないか、との噂は彼も知っている。
「あの上着の染み……」
黒いのは――血の染み?
もし、そうだとするとこの男は?
「た……いや警察に知らせたほうがいいよ」
葉月は怖くなってきた。もし胡桃割りでなかったとしても、あからさまにこんな怪しい人間が近所を歩いていたというだけで恐ろしい。
だが、兄は葉月の意見を退ける。
「馬鹿言え。もし本物だったらどうする?いまさら銃警なんかに横取りされてたまるかよ」
本物かどうかはまだわからないが、とりあえず後を尾ける、と太一は言う。
「もし胡桃割りならねぐら突き止めてから召集かけて半殺しだ。それから突き出してやる」
「本物ならって……そんな、危ないよ?殺人犯だよ?」
いいか、と太一は向き直り、らしくない真面目な顔で言う。
「俺たちゃみんなろくでなしだ――あの探偵の言うとおりよ。でもよ、仲間が殺られてるってのに殺った奴がのうのうとうろついてるのをビビッて見逃しちまったらよ、本当の屑に堕ちちまうっての」
畜生め――と呟いた後、またゆっくりと語りだす。葉月にだけは解って欲しかったのかもしれない。
「そりゃ、あのバカは飛び切りのろくでなしだった。だが、それでもダチだったからな――正義って言葉は嘘くせえと俺も思うがよ、俺にも貫きたいもんくらいあんだよ」
「でもっ……やっぱり危ないよ」
「安心しろ。改造スタンガンもあるし、奴が気づいて逃げてもやりようはあるからな――無理して格闘したりはしねえ。取り合えず、このまま逃がしちゃ駄目だ。ほっといてまた誰か殺されたらどうするよ」
「――でも」
「俺は行く。お前は帰れ」
「……やだ、怖いけど……離れるのはもっと嫌」
――しょうがねえな、と太一は空を見上げる。
こういうときの葉月が頑固なのは知っていた。仕方ない。付いてくるなら俺の後ろにいろよ――と告げて、太一はゆっくりと男の後を尾けていく。
とは言え、葉月はまだ躊躇っていた。
「どうしよう……どうすれば」
混乱する頭で自分に問いかけたその時、先日弥生と話した言葉が蘇る。
「――なんかあったら、助けてもらうかもね」
匠に、と言う意味で言ったのだったが、弥生は自分が戦う、と言う意味で答えたのではなかっただろうか?
あの小さくて細っこくて可愛い弥生から出た言葉とは思えない、硬い石のような言葉。
あれは結局、どういう意味だったのだろう?
だけど、現実として葉月が知っているのは彼女のアドレスだ。
迷った末、簡潔に事実だけ記してメールし、兄を追うことにする。
ついていくのは正直不安だったが――置いていかれるのはもっと心細かった。

匠と弥生はトレーニングから帰る途中だった。
今日は匠自身も、弥生の師である有唯真理王に稽古をつけてもらったのだったが。
「……正直に言おう。痛てえ」
途中、解けそうな靴紐を結びなおすためにかがむと脇腹と肋骨がめきりと痛い。加えて全身の関節も痛い。
有体に言って、体中動かすたびにみしみし痛む。
大丈夫ですかと弥生が心配して覗き込むが、答える気力もほぼ喪失していた。
――お話にならないほど、叩きのめされた。
曲がりなりにも組手になっている弥生とは違い、匠の実力では真理王に触れることすらままならない。
気がついたら蹴られどつかれぶん投げられ関節を極められていた。頭にできたコブもまだずきずき痛む。
むしろ痛くない箇所を探すのに苦労するほどだ。
「面目次第もないな……」
「匠さんなら、ちゃんとトレーニングを積めばすぐに勘はもどりますよ」
「そう言ってくれるのは嬉しいが……昔でも格闘評価はB級どまりだったからなあ」
それでも先日の連中程度なら当身と足払いの使い分け程度で吹っ飛ばせるが、匠の知る限り格闘では最強の真理王相手では仕方ない部分も……うん?
そこである可能性に気づく。
「――してみると、弥生には相当才能があるのかな」
そういって弥生を見ると即効で照れた。
「うっ……せっ先生は手加減してくれているのだと思うのです、たぶん」
照れ隠しに手をぶんぶん振って歩いている。
……まだ子供だな、と匠は思いつつも黙っていた。
そのとき、携帯の着信音が鳴った。弥生がメールを確認する。
「葉月さんからです――」
内容を見たあと、弥生はぎゅっと強く匠の腕を掴んだ。
「匠さん……これ」
緊張したその口調に、匠は訝しげに振り返る。
「葉月さんからメールが。胡桃割りのことで」
「――何処だ?」
「四丁目の裏通りで、それらしい人を見たと」
裏通りの周辺は繁華街の中でも吹き溜まりのような地域で暗い路地も多い。
胡桃割りの出現ポイントとしては充分あり得る場所だった。ち、と匠は舌打ちする。
「良くないな――行くぞ」
走る匠の後を、弥生が追いかける。
動作はけして素早く見えないが、そのスピードは匠と変わらない。
まるで空気の抵抗が無いかのように軽々と身体を速度に乗せていくその姿は、人よりむしろ兎や猫科の動物を思わせる。
「匠さん、いました」
ややあって二人を遠目に見つけた弥生が囁く。匠の息が少々上がっている一方、弥生はけろりとしていた。
太一だったか――兄の赤毛はよく目立つ。
その向こうにアングロサクソン系と思しき男の背中が見えたが、纏う雰囲気は明らかに常人のものとは異なっていた。
微かに漂うのは幻臭――違う。本物の腐臭、いや血臭か?
匠は見た瞬間に理解する。こいつに、間違いない。
その時、男が振り向き、にたりと笑ったように見えた。はっとして弥生が叫ぶ。
「葉月さん!」
その声に葉月はこちらを振り返るが、太一は依然として男に見入ったままだ。
「……え、弥生ちゃん?え?」
混乱する葉月。一方で男は彼等にゆっくりと踏み出し、近づく。
「いかん、離れろ!」
動けないままの二人を見て匠も叫んだ、その時。
男は唇を吊り上げたまま、葉月たちに問いかけた。
――とても、嬉しそうに。
「Good Will?」
何の変哲もない、外国人中年男の口から放たれたその言葉を、その場に居た者全員が聞いた。
弥生が駆け出す――そしてようやく、固まっていた太一も直感した。
「……やべえ、コイツ」

(おお、私の思考はそのまま嗜好でもあるのです、神よ。故に予め罪を告白致します。私はきっと地に精を漏らす罪を犯すでしょう。それ程にこの!)

中年男がすっ、と手をかざす。その手の中に、青白く燐光を放つ幾何学紋様が現れたと見えた次の瞬間――太一は葉月をとっさに横に突き飛ばした。
――この恐怖は、駄目だ。ここにいちゃ、まずい。
「葉月!逃げろ!」

(おお、この瞬間!)

――刹那。
今まで葉月のいた場所で、太一の頭部の上半分が。
文字通り――吹き飛んだ。

(おお、神よ!声無き叫び、断末魔こそ聖なる音楽!この一瞬、甘美に打ち震えるこの魂をお許しください!)

びしゃり、と飛沫が葉月の顔に降り注ぐ。
それは、灰色と赤の交じり合った肉片――太一だったものの欠片だった。
「あ……兄貴?」
まだ事態が飲み込めていない彼女に一向に構わず、何かが続けて発射される。
それは葉月の眉間を過たず狙い、粉砕する筈だった。
しかし一瞬の後――匠は噛み締めた口の間から、短く息を吐く。
「――最悪の、半歩手前だな」
葉月は、無傷だった。
そして射線の間に立つのは、弥生。
その足で奔り、敵の前に立ちはだかる――友人を、葉月を守るために。
「Hey,girl? Please play me?」
胡桃割りは嘲りを滲ませ問うたが、その表情はこの少女に対する疑惑に硬直していた。
敵の警戒した視線を無視し、弥生は匠に指示を仰ぐ。
「使用印形は『愚者』ともう一つ――『射手』の応用型と思われます。第ニ階梯能力者と認定――指示を」
「――Why?」
疑問とともに、再びその手から何かを放った次の瞬間、胡桃割りは驚愕した。
……「弾」がはじかれる。馬鹿な、ありえない。有り得ない!
何事かが、この胡桃割りの知識に無い何かが、この少女の体の周辺で起きている。
「やはり関係者か――了解。聖遺物の起動を許可する」
匠は続けて弥生に告げる。相手が只の人間かそうでないか、という判断に関する限り、匠より弥生の方が鋭敏な感覚を持ち、それに適応すべく知識を刷り込まれている。
故に匠は弥生を開放する。
「喚起せよ――灰は灰に」匠が呟き。
「塵は塵に――起動します」弥生が応える。
――そう、何故なら彼女は、「人でなし」に揮われるべき力の具現だから。
ちゃりん、とどこかで、鈴が鳴った。
「殺し屋相手に情けは無用だ。――残響に還せ」
「……了解。排除します」
「……No Thankyou!」
胡桃割りはそこでようやく、弥生を容易ならぬ敵と認識した。
叫び、「弾」を両手に出現させる。それは真紅の粒。自身の血液、その連なり。真珠のように、そして銃弾のように。
それを意に介さず、解き放たれた猟犬の如く弥生は疾る。
音もなく胡桃割りの手から放たれるのは血液の凝結した弾丸。速度は実際の銃弾ほどではない――しかし距離は至近。普通なら交わせる距離ではない。
だが弥生は――弾く。交わさずに、弾く。
そして真っ直ぐに距離を詰め。
「Goddamn!!?」
動きについていけない胡桃割りが認識したとき既に、彼女は懐に滑り込んでいる。
――ただ一撃だけのビートを奏でるために。
掌打をねじ込み、刹那の一撃を腹に叩き込む。
「――!」
声をあげる間もなく。
胡桃割りは後ろに吹っ飛んで――そのまま悶絶した。
ただ己の拳のみをもって戦う――それが弥生の方法。
彼女の技は型としては中国拳法の八卦掌や纏糸勁に近い。
小柄で非力な人間が、体格や膂力で勝る相手と戦うための術。 
いや、そもそも本来はそれこそを武術と呼ぶのだったか。
生まれながらの強者に鍛錬や技などは必要ない。
牙のない羊が牙持つ狼と戦うために磨き上げた角――そしてその角を磨くものこそ鋼の意志。 
意志さえ強固であれば羊は牧羊犬に、あるいは猟犬にも変わり得る、ということを弥生は己の肉体で証明する。
「いいぞ、まだ油断するな」
弥生に声をかけつつ、匠は状況を考えていた――印形(シジル)。それを顕現させ得る者は限られている。そして、その大多数はまず間違いなく「スティグマタ」の関係者である。
例えば「贖罪者イザヤ」の構成員。匠にとっては忘れたくとも、常に付きまとうその名、かつての同僚達。
もしくは「軛徒(カテナ・カニス)」。能力を自然にあるいは人工的に手にしてなお、神の恩寵の外に居る者。
彼らは犯罪者や異教徒からの選抜者、あるいはスティグマタ内部の背徳者であり、いわば神鎖に繋がれた犬だった。贖罪者の手駒として、使役され消費され使い捨てられる奴隷――文字通り屍として神に仕える者たち。
印形を見た弥生の判断と男自身の言動。それから察するにどうやら彼は後者らしい。
しかし、だとすれば誰の手先か?
一方――倒れ付し、アスファルトと血の味を口に感じながら、その男「胡桃割り」はなお思考する。

(これは神の与えた試練だ。私の携挙(ラプチュア)への道を塞ぐ、天を覆う影だ。蛇の誘惑だ)

全身がばらばらになりそうな苦痛が腹部から沸騰していた。しかし彼の心臓はまだ早鐘のごとく脈打つのをやめず、その鼓動が主の言葉の代わりに彼を駆り立てる。

(この蛇を。少女の姿をした妖蛆を頭を潰し打ち倒し引き裂いて死体を蹂躙し積み重ね血を振り撒く。彼女の血を流し尽くすことによってのみ、彼女の体に彼女自身の血を振り撒くことによってのみ、彼女の罪は浄化されるのだ。それしかない)

彼はぎり、と口を噛む。慎重に距離をとりつつ、彼を見下している少女の姿が眼に入る。
彼は思う。この蛇が、神の僕たる自分を見下すなど、あってはならないことだ。だから。

(そうだ、私はそれをしなければならない。自らが例え肉片と化そうとも、少女を肉片にしなければならない。そうとも、私に刻まれた印形からは未だ力が流れ込んでくるではないか)

ぎちり、とからだの節々が叫喚する。しかし、もはや彼に躊躇はない。
彼は、この少女を殺さなければならないのだから。

「胡桃割り」は眼をくわ、と見開き――そして立つための言葉を搾り出す。
「……Today is the day.」
匠は放心したままの葉月を見やった。彼女は弥生の戦いを見ていたろうか?
守秘義務からすれば後で口止めが必要だが、今はそもそもそんな事を話せる状態ではない。大体、そんな権利
が自分たちにあるとは、匠には到底思えなかった。
結果的に、巻き込むかたちになった太一の死体を省みる。
「――痛みを感じる暇もなかったろうが。それが唯一の救いか――畜生」
匠は、敵である胡桃割りよりむしろ自分に憎悪を抱いた。
こうなることも、充分予測出来たはずなのに。
葉月はまだ呆然と兄の倒れた姿を見ている――いや、見てはいるが認識できないでいる、といったほうが正しいのだろう。とりあえず退避させる必要があった。
鎮静剤を取り出すと、匠は自分の身体で死体を隠すようにして彼女を抱き起こす。
「葉月!しっかりしろ!戻ってこい!」
「ひっ……ひっ。あ、た……くみ?」
匠の声で我に返ったのか。へたり込んでいた葉月は突然がば、と起き上がり、匠の背後に身を乗り出そうとして暴れた。
「いやああっ!兄貴ぃっ!」
「見るな――少し、休め」
やむを得ず、鎮静剤を染ませたハンカチを口にあてる。
「ひっ……」
意識を喪う瞬間、葉月は視線の端に敵を見つめながら、彼女を背にして守るかのように立つ少女の姿を見ていた。
「弥生、ちゃん……? 」
くたりと力の抜けた身体を抱き上げながら、匠は弥生に叫ぶ。
「弥生、奴が立つぞ、気をつけろ!」
弥生が見つめる前で、ゆっくりと「胡桃割り」は立ち上がった。ふらつきながら、胸を覆うシャツを引き裂き投げ捨て、罅割れた聲を吐き出す。
「Judgement――即チ女ヲ見て情欲スル者……そのモノは既に心ノ中で姦淫ヲ犯シタ」
荒い息とともに上下する、露になった胸には、印形がおぼろげに発光しているのが見える。
「my right eye,汝ヲつまづかせるナラ……その眼ヲ抉リ出シテ捨てヨ」
匠はやや驚いていた。印形「愚者(イポス)」は精神機能を闘争心に全て振り向けることで身体能力を高める残響呪式である。男の狂的な攻撃性と尚立ち上がる精神力はその賜物か。発言から判断すると、彼はどうやらマタイ福音書の一節を極めて恣意的に捉えているようだが、この歪んだ認識こそが男の喚起力の源なのかもしれない。
「Maybe,四肢を失オウとモ、全身を焔獄に投ゲ入れらレルより良イ」
しかし、ならば彼が操る血液弾はどこからきた力か。七十二印形の一つ「射手(レラジエ)」に似てはいるが、血液を触媒とする聖符では無かったはず――「射手」でないとすれば、この男が最初から持っていた能力なのか。
「I――ワタシは」
どくん。どくん。
弥生は聴力を研ぎ澄まして、男の心音を聞こうとしていた。
どくん。どくん。どくん。
――いや、違う、とふと弥生は気付く。
これは――自分の心音だ。
「彼女タチの眼を抉っタ」
男の声は奇妙なアクセントと不協和音を伴って響く。
どくん。どくん。どくん。どくん。
――怖い。
「淫売供を救ッテヤッタノに何故」
何かに追い立てられるように男は切迫した口調で独語する。まるで、誰かに喋らされているかのように。
男を駆り立てているものが怖い。男が何を信じているのか、知るのが怖い。
それが彼女が信じるものと同じものだとは、思いたくない――だけど。
「なぜ、ナゼ、何故!?邪魔ヲすルノカ!」
だけど、このひとは。
「弥生!」
匠の声が、弥生を押してくれる。力強く。
――悪い、ひとだ。
だから彼女はその声に応え、胡桃割りを見据える。
「仕留めろ。奴を残響(エコー)から開放してやれ」
――自分は正しいのか、罪なのか。今は判らないけれど。
「はい!」
今このときは迷うべきでない。
匠の言葉が、彼女に力を与える――故に彼女は、呟く。
――士針基底聖句第三章第五節。
「真認せん(AMEN)――己は拳」
体勢を立て直そうとする胡桃割りに弥生は仕掛ける。
「神の下ならず人の元に在る者、神己を顧みる事無し」
ぎこち無く、しかし迷い無く、彼女はそれを唱え。
「然れども己猶全てを受容す。故に罪を負い罪を砕く」
躊躇せず間合いを詰める。胡桃割りの足元――血溜りから「弾」が飛び出した。
「故に謂う、神は己の拳に握る命に在り」
「故に揮う――神は」
弥生はそれを紙一重で回り込むように交わし。
「――砕く」
掌底を叩き込む。
「GGAAAGA!」
血を吐いてなお胡桃割りは倒れない。しかしその叫びはもはや人語を為していなかった。
動きこそ速いが闇雲な攻撃を彼女は軽やかなステップでかわす――先ほどと同様に。
それは到底、足の悪い少女の動きではない。
踊るように、その足はビートを刻む。細い身体が閃く。
その躍動は、胡桃割りの切迫した鼓動を打ち消す。
そして繰り出される正拳が、今度こそ。
「あなたの手は」
厳、と愚者の心臓を捕えた。
「――もう、誰も殺せないのです」
彼の心音が、止まる。狂気に侵された眼が、ついに光を失った。
「……My God」
ぐたり、と力が彼から離れ、今度こそ胡桃割りは崩れ落ちた。
同時に胸に印形が光――いや炎の線として浮かび上がる。
「――何ですか?」
弥生がとっさに飛びすさる。
轟!と炎はそのまま彼の体を侵食し、急速に燃え上がった。
声もあげず、胡桃割りと呼ばれた存在は黒い煙と姿を変えて焼失し――消失していく。
――枷徒の素材は、多くが死罪人だという。
彼等はスティグマタにおける奴隷であり、贖罪者の手足となるために存在する捨て駒であるが、それ故にコントロール用の束縛が為されていることは匠も知っていた。
この炎も、恐らくその結果だろう。生体反応に応じて起動する爆弾でも仕込んであったか。それとも罪人の枷として屠殺天使(ヘマハ)の印形でも使っていたのだろうか?判断がつかないまま、匠は敵の最期を見届ける。
――肉体は速やかに形を失い、後には影の形をしたどす黒い炭灰と燻る煙だけが残った。
「匠さん、これは……?」
弥生は明らかに動揺していた。
戦った相手が死んだ、いや、客観的に見れば確かに彼女が殺したのだ――無理もない。
今回が初陣である事を考えればむしろ今まで良く耐えた、ともいえた。
「灰は灰に、塵は塵に…か」
その言葉に弥生の身体がぎゅっ、と震え縮こまったのを見て、匠は弥生の肩に手を置いた。
「弥生はよくやってくれた。奴の最期は気にするな――お前のせいじゃない」
気休めにすぎない言葉ではあったが、それでも弥生の震えは少しだけ小さくなる。
――とりあえず、葉月たちを病院に連れて行こう。
そう思いながらも、匠は「胡桃割り」が身を持って示した事実に慄然としていた。
これは所詮――狼煙に過ぎないのだと。

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