創作「A Change Of SeasonsⅧ」

-ChapterⅧ-

弥生はここ数日、一人で真理王のところから帰るのに恐怖を感じていた。
まだあんな人がいたら、と思うと正直怖かった。
――背中に匠さんがいなくて、わたしは戦えるのだろうか?
一人で戦わなければならない、という恐怖。
さらに、それ以上の恐怖もあった。
もし匠がそもそも、もう戦えないのだとしたら――わたしは、どうすればいいのだろうか。
匠の考え方を弥生は彼女なりに知っているつもりでいる。
仮に、現時点で弥生のほうが彼より強いとしても。
敵に弥生が殺されそうになったとしたら、あの人は迷わず間に立って弥生を守ろうとするだろう。
たとえ、その結果死んでしまっても――弥生を、守るために。
そんなことは、させられない。
でも。もしそういう状況に陥ったとしたら、自分はどうすれば良いのか。
――わたしは、匠さんを守れるだろうか?自分さえも守れるかどうか解らないのに。
あるいは、もし自分か匠の一方しか守れないとしたら、自分はどうするだろうか?
そんなのは考えるのも嫌だった――どちらかを選ぶなど、出来るわけもない。
それに、葉月のこともある。
あの日以来、葉月は来ていない。
彼女が退院したときも、怖くて自分からは会いに行けなかった。
これ以上彼女を巻き込むのは、怖い。
加えて葉月も弥生を怖がっているかもしれないと思うと、余計に会うのが恐ろしかった。
仮に会ったとしても、どんな言葉を交せばよいというのだろう?
一方で、弥生は自分自身にも恐れを感じている。
ここ数日、真理王と組み手をしている瞬間に感じる独特の感覚。
鈴の音のような幻聴とともに現れるそれと並行して、弥生は技が研ぎ澄まされていくのを感じていた。
確かに、進歩はしているのかもしれない――しかし、それは努力によってだろうか?
そう思って歩いているうちに、弥生は路上で立ち止まる。
最近顕著に感じるようになったとある症状が、いつのまにか彼女に纏わりついていた。
太腿の内側に刻まれたひとつの印。
その箇所と周辺が熱を帯びて疼く。
「……うあ」
疼きは一歩進むごとに熱を増していく。身体全体を蝕むように。
快楽とも苦痛ともつかぬそれは、敢えて言葉にするなら狂熱。
胡桃割りを意志の赴くままに葬った、拳に宿る狂気――いや、狂気ですらない、冷静にして酷薄な殺害への希求。
――これは、わたしの力じゃ、ない。
自分と重なる何かが、心を造り変えていく。
弥生はその場にうずくまってしまいそうになる。
立っていられない。その感覚は身体の中心を暴れ周り、心を陵辱していく。
熱が更なる熱を呼び、息もまた熱く荒く変わってゆく。
「……わたしは、何も自分では選べないのですか……?」
熱に浮かされた問い掛けの言葉は、別の問いにかき消された。
「お嬢さん、お困りですか?」
振り返ると、今まで全く存在を感じなかった男がいた。手には一冊の本を抱えている。
弥生は何処かで見たような装丁だ、と思った――そうだ、聖書みたい。
しかしこの人は――誰だろう?
聖職者には見えない。あえて言えば、どことなく鴉を思わせる。
それも普通の黒い烏ではない。例えるならば、灰色の大鴉。
男は弥生の足に一瞬眼をやると、低く言葉を呟く。物凄い早口で紡がれるそれは、何を言っているのか弥生にはさっぱり聞き取れないものだった。
 
 蛇に対するに蛇を以て為す
 さればケリュケイオンの両眼よりいざ王冠に降り来たれ
 左眼のカドゥケウス峻厳の柱より降り、右眼のアスクレピオス慈悲の柱より降りて蛇の螺旋を紐解かん
 其は妄執の枷にして残響の鎖、故に迅く縛鎖を砕き、独り子に蒼穹の翼与えん――


「お気をつけなさい――意志を強く持たねば、『残響』に呑まれますよ?」
最後にそう言われて気がつくと、嘘のように疼きは消えていた。
先ほどの暝い思考の迷路も、どこかに霧消してしまったかのようだ。
男が言っていることの意味は解らないままだったが、弥生は『呑まれる』という表現にどこかぞっとした。
「困っている女性を助けられぬ男など、無価値もいいところです。良かった良かった」
男の口調はむしろひょうきんと言っても良いものだった。
言い方は少々引っかかるが、相手を安心させる何かがある。
――ひょっとして今、わたしは助けてもらったのだろうか?
案内状をお持ちいたしました、と男は続ける。
「……あの、案内、ですか?」
「そう――戦場にして劇場、牢獄にして式場たる場所へのご案内」
「……戦場」
「予め申し上げておきましょう。貴女が選べないというのは、自分に嘘をついているだけ」
弥生は内心を見透かされたようで飛び上がりそうになったが――男は淡々と容赦なく続ける。
「解っているはずですが、貴女は既に一度選択した――それをお忘れなきよう」
弥生の心に否応なく突き刺さる、そんな言葉は聞きたくなかった筈――――さりとて、何故わたしは今、素直に聞いているのだろうか。
「さて、僕達が何かを選ぶとき、正しいからそれを選ぶのでしょうか。それとも、そうしたいから選ぶのでしょうか?」
弥生は男の眼をもう一度見た。左右で僅かに色が違って見える――だがしかし、それでもどこかに優しさを湛えた眼だった。
「――どちらを選ぶかは、貴女次第です」

――帰ってきた弥生はそのまま浴室に駆け込んだ。シャワーを浴びる。
寒い。鳥肌が消えない。身体の震えが取れない。
温度を上げても、一向に震えは収まらなかった――分かっている。
震えるのは寒さにではない。怯える自分の心が恐怖に凍て付くのだ。
何に怯える?
男の言葉が耳に残響となって響く。
彼は持っていた本を弥生に渡すと、そのままふいに消え去った。
「最終的な選択権は貴女にあります。ただ、発熱にはお気をつけなさい――特に、信仰の熱には」
――そんな言葉を残して。
少しだけ、判るような気がした。先ほどの感覚と胡桃割りの眼が、同時に蘇る。
忘れないように、しよう。そしてまた同時に、忘れまい――自分はあの時すでに、人を一人、死の手に渡したのだということを。
それを肯んじてなお進むのならば、選ぶべき答えはおのずと出ている。
「誰の、ために、戦うの?」
震えは、止まった。
大切なのは、たった一つだけの真実――ならば。
もう、迷いは無い。
「わたしは――」

「まったく!自分の無力さを嘆くだけならとっとと降りてアンテナ売りにでもなりなさいってのいつまでもうじうじとあー腹立つ!」
「……どうしたのですかお姉さま」
読書していた同居人の少女が驚く。
なんでもないわよ、と夜羽は苛々と答えるが「どう見ても嘘ですわお姉さま」と冷静に突っ込まれる。
そう言えばこういう子だったわ、と夜羽は溜息をつく。
「はあ、柊さんのことで?放っておけばよいのでは」
「それじゃ弥生が負けちゃうじゃないのよ」
「――不出来な介添人が足を引っ張ると?」
ある意味ではね、と不本意ながら同意する。いつもながら後輩――「準使徒マテア」の言葉は容赦ない。
マテア――神無月響子は眼鏡を掛け直し、続けてはいかがです?と無言で促す。
「弥生は匠の心配なんぞしてる余裕はないのよ、本来。だから、出来る出来ないじゃないの。あいつはやらなきゃいけないの――弥生に負担かけてる場合じゃないのに、それなのにあの男ときたら!」
目の前に匠がいたらそのまま首を捻じ切らんばかりの搾り出すような口調だったが、それでも怒りよりどこかに同情がある。
「あいつ自身と弥生のために、やらなきゃいけないって言うのに……」
響子はじっと眼鏡越しにそんな夜羽を見ていたが、ややあって生暖かい笑みを浮かべたまま首をかしげる。
「はあ。お姉さまは面倒見がよいのですね――それとも、幼馴染だから特別優しいのでしょうか?」
夜羽はふん、と鼻を鳴らした。美人らしからぬことおびただしいが意に介す風もない。
「何言ってるのよ。大体幼馴染といったらあんたんとこだって一緒でしょうが」
「あら、わたくしはそもそも介添人ですし。それが任務ですから面倒を見るのは当然ですわ」
付け加えるなら、彼に優しく接しているつもりは欠片もないですし――と、響子はしらっと言い放つ。
「ほう――?それじゃ貴方のヘンゼルは今何処よ?グレーテル。ほったらかし?」
「まだお菓子の家で夢の中、ですわ。あの子豚は呑気なもので」
近日中に引きずり出しに行ってきますわ、と少女は笑う。
仮にも聖別者を子豚扱いですか。
「やっぱりあんたも甘やかしてるんじゃないの?まあ――愛があればそれも苦にならないのかしらね。うらやましいわ」
「――愛!お姉さまからそんな単語が聞けるとは!ああ、やはりステアウェイは使徒の心すら荒ませるのですね!わたくしも気持ちを引き締めなければ」
「なんでそういう結論になるのよ」
「お姉さまが愛という言葉を使うなど通常有り得ません。錯乱としか思えませんから――ああ、違いましたね。わたくしたちの良好な主従関係に対する嫉妬でしたか」
「……可及的速やかに且つ確実に死にたいのかしらねこの娘は。喜んで手伝ってあげるけど?」
いつか言霊で屋上から裸でダイブさせてやるわ、と夜羽は内心思った――ところで主従というが、介添人と聖別者、どっちが主でどっちが従なのだろう。
「きっぱりと遠慮致しますわ――ふふ」
その笑みを見れば――あえて聞くまでもなかった。

夜の探偵事務所。
パジャマ姿の弥生が応接室に出てきた。
「何だ?こんな時間に」
おずおず、と言う感じで彼女は切り出す。
「あの――今度、靴を買いにいっていいですか?」
「ん?いつものスニーカーは?」
「こないだので、少し……」
ああ、なるほど。胡桃割りとの戦いで派手に動いたせいかだいぶ痛みが激しいらしい。
血の跡こそないようだが、そのまま履いていて気持ちのいいものでもあるまい。
「判った、予算は?」
財布を渡しても無駄使いする弥生ではない。一人でも問題ないだろう、と思ったのだが。
じっと匠を見ている――どうも眼が何か訴えているような?
「……一緒に、行ってくれませんか?」
「ああ?そうか――それなら一緒に見に行くか」
人ごみが心細いのだろうか、と思う。
「――良かった」
弥生は霧が晴れたように笑った。
「それじゃ、来週でも行きましょう」
「――嬉しそうだな」
そういえばしばらく新調してなかったしなあ、と少し申し訳なく思っていると弥生が表情に気づいていった。
「違いますよ」
「え?なにが?」
「嬉しいのは、靴のことだけじゃないのです」
「……意味がわからん」
「ふふ……おやすみなさいなのです」
語尾が「のです」になるときの弥生は大抵リラックスしているときだ。
しかし今日は単に嬉しくて変なのか、眠くて論旨が変なのか判別しがたい。
「There was a little girl, and she had a little curl Right in the middle of her forehead (小さな女の子が おりました おでこの真ん中に ちっちゃな カール)」
マザーグースと思しき歌を口ずさみつつ、浮遊するような足取りで弥生は寝室に戻っていく。
「When she was good,she was very, very good,But when she was bad, she was horrid(良い子のときは とっても よい子 悪い子のときは めっちゃ わるい子)」
「おやすみ……?」
結局良く判らぬまま、弥生を見送って応接に戻ると携帯が鳴った。
――仕事用アドレスへのメールだった。

金曜日の午後三時。
先日、夜羽と打ち合わせをしたレストランに来ていた。
またけったいな時間に設定したもんだな、と匠は対面者に皮肉を言う。
「この時間帯なら、みな静かだろうと思いましてね」
相手はさらりと流す。
「ここは日本だ。四旬節(レント)だって知ってる奴のほうが少ない」
更に言えば、知ってても守らない奴のほうがより多いだろう。
「あなた自身は?」
「こないだも肉を食べたよ」
使徒も一緒にハンバーグをかっ喰らってたがな。
「最近初対面の人間と話す機会が多いんだが、どうも俺が知らんところで知人同士の事が多いようだ」
匠はアイスコーヒーを飲みながら探りを入れて見る。
全く、つかみどころの無い男だった。
どこの出身とも想像がつかない。とりあえず東洋系ではなさそうだが、色に例えれば霧の中の灰色だ。まず年齢からして読めない。体格や顔の皺などを見る限り若そうにも見えるが、こういう稼業では当てにならないことは匠も良く知っている。もし彼も能力者だとすれば、尚更だ。
「アドレスは誰に聞いた?まあ、住所を調べればすぐ判るだろうが」
抹茶ライチシェイクとかいう代物を一口すすると、顔をしかめて彼は答えた。見た目どおり不味いようだ。
「貴方を知っている誰かから、ですよ」
「――AJの関係者か。調査依頼ってのは嘘か?」
「彼らとは直接の関係は有りませんな。あなたと単独でお会いしたかったものですから」
「何故?そもそもあんたは何者だ?」
男はにこやかな表情を崩さない。
「僕ですか。皆からは単に伝令使――ヘルメスと呼ばれています。足が速いのと、口がよく回るのだけがとりえですね」
どこかで聞いたことのある仇名だが匠には思い出せなかった。
まあ、メッセンジャーならば誰でも思いつきそうな名ではある。
「――日本語も上手いな」
「伝令は伝えるべき相手の言葉を喋れなきゃ用を足さないでしょう。ともあれ、とある方から伝言を預かっておりまして」
「――伝言?誰からのだ」
「ですが、まあその話は後で。いくつか確認しておきたいことがありましてね」
いまいち話が見えないが、男は構わずに語り始める。
「いきなりですが――『背教騎士団(ジュデッカ)』と呼ばれる組織をご存知ですか?」
知ってるも何も――匠は記憶をさらってみる。
背教騎士団(ジュデッカ)。
それはスティグマタ、いや全キリスト教会勢力にとって天敵とも呼べる集団。
贖罪者たちが異端あるいは主に仇為す者と規定する中でも、『旅神(トリッピン・ゴッズ)』と並んで柱石のひとつに数えられる組織だ。イスラム系のテロ支援組織にも関わっていると聞いたことがある。
かつての上司はしばしば「地獄の最下層(ジュデッカ)に蠢く蛆虫供」と表現していた。
「事実でもあり、誤謬でもあります」
「伝令使」は匠の認識に説明を加え修正を求める。
「キリスト教的世界観の否定者に限らず『騎士団』は全ての信仰と教義に対する造反者、否定者を受け入れます。ルールはただひとつ――メンバー各員の信条に口出ししない事」
「――――」
「ただし、同時にあらゆる不当な宗教弾圧には徹底して団結し抵抗する。すなわち、信仰を否定する自由と信仰する自由を共に守ろうというのが趣旨の団体です」
「――矛盾している答えのように思えるが」
「世界がそもそも矛盾している限り、解答も不整合は免れません。不整合を改めるための――いや、天秤を調整するため、と言うほうが適切ですかね」
そのための傭兵が我々ですよ、と彼はさらりと宣言する。
「故に必要とあらばテロにも手を染めます」
「あんたは騎士団の団員なのか」
「より正確に言えば、協力者ということになりますか。僕自身は個人営業です」
「――騎士団やあんたの行動理念はテロを容認するのか」
「カウンター・テロとしてのテロリズムを推進する米国のような存在に対するに、止むを得ない場合があることはご理解いただけるでしょう。我等、多数者の狂信と暴力に個人の狂気と能力をもって抗うべし――騎士団の行動理念です」
「止むを得ない、じゃ止むことは無いのも事実じゃないか?」
男はわずかにかぶりを振った。
「真理ですが、世界は真理で動くようには出来上がっていません。残念なことに」
彼の片眼が霞むように揺らめく。
匠はそのとき初めて、男の瞳が左右で色が異なることに気づいた。金銀妖瞳――いや、片目は義眼か?
「それは貴方の所属する組織にも言えることです。スティグマタは周囲からの誤謬と批判に常にさらされ、それでいて批判には真っ向から反論出来ぬ内部矛盾を抱えている」
そうじゃありませんか?、と彼は言う。
「だからこそ僕としては正直このステアウェイとかいう茶番自体が気持ち悪いんですよね。キリスト教的な世界観のみで全てを語りつくそうってのがそもそも無理ですし、所詮は名のみの虚ろな聖者、能力の牢獄に囚われた哀れな子供を作るだけに終わるのではないですか?不毛な実験はとっとと中止して子供たちを日常に還してやるべきだと思うんですけどね」
一気に喋った後、匠に更なる言葉を浴びせる。
「――何より、あなた方自身がその題目を信じているとは思えないのに」
「……子供たちには、日常がそもそも存在しなかった者もいる。彼らにとっては選別に参加することが日常を得るための戦いだ――それで救われる奴も居る」
「確かに、弥生さんも結果的に手術の代償として参加することになったのでしたな」
――睨む。しかし彼は、意に介した風も無く先を続けた。
「失礼。それ自体を否定する気はありません。ですが、だからといってステアウェイの表向きのお題目と裏の実態、その乖離が無くなるわけではない」
「スティグマタの上層部に対する批判に聞こえるが、それを一介の贖罪者にすぎん俺に言っても無意味だと思うがね」
正直話を変えたかった。匠の立場では答えようのない問いばかりだ。
心情からならばいくらでも賛同したい意見なだけに尚更だった。折り良くウエイトレスが通ったので紅茶を頼む。
「――背教騎士団はあんたみたいな奴ばかりか」
彼は僕にも一杯、と頼んだ後「自分より口のまわる奴もそう居ませんがね」と肩をすくめる。
問題は、皆が恩讐や刷り込みから逃れられるわけではないという事だという。
ひとつのマインドコントロールから抜けても別の観念に嵌っては意味が無い、と彼は嘆息する。
また、自分は無宗教、あるいは無神論者だと言う人間の扱いも結構困るのだという。
大体、自分は無宗教ですなどと簡単に言う人間は、制度化した宗教的慣習の軛に囚われていることに無自覚なだけなのだと。
「しかしそういった者についても、目的さえ同じならば仲間として受け入れるべきだ、それが出来てこそ組織の存在意義がある――という意見もあります」
と再び嘆息する。彼自身はどうやらその意見に否定的なようだ。
「ですから内部は常に喧喧轟轟侃侃諤諤てなもんです。ま、討論することは大事です。対話する意欲を失えば後は武器を持って争うしかない。これもまた世界の縮図ですね」
紅茶をすする。聞く限りでは民主的と言っても良さそうだ。
テロ組織の仲間に民主的と言う言葉を使うのが適切であれば、の話だが。
「まあそんな訳で、僕は貴方と対話することは意味があると思っていますよ」
「何故だ?」
「――貴方が望むなら、弥生嬢と貴方を騎士団は受け入れることが出来る。そういうことです」
「スティグマタを裏切って――使徒たちと戦えと?馬鹿な。今より悪くなるだけだ」
「我々が貴方たちを戦わせはしません」
「信用できると思うのか?」
「騎士団が今まで生き延びてこれた事実を考えてごらんなさい。教会勢力の敵、狂信者の敵は何処にでもいます。敵の敵は味方ですよ。少なくとも、馬鹿げた選別から彼女を救い出すことは出来ます」
「――無理だ」
例え匠がそう望んだとしても、弥生は――この神を信じている。
スティグマタを、彼女自らの聖痕によって象徴される者の名を裏切れるはずがない。
「柊さん。しかし彼女が本当に信じているのは」
「やめてくれ」
ふう、と彼は息をつく。
「――逃げることも出来ませんか」
「出来る訳がない」
「ならば、貴方にできることは一つですよ。昔話をしましょうか」
昔話だと?
「雨宮惑が何故『逸脱者』となったのか――貴方自身、本当はわかっているはずだ」
「……惑、だと?」
なぜその名が出てくる――何故その名を知っている?
「貴方は憶えている。何故ならその記憶だけはけして失うはずはないからだ。もし忘れたと思っているのなら、それは貴方が自分自身に嘘をついているだけ――本来ならば、貴方が彼女の地獄に居たかもしれないということを。貴方が今此処にいるのは幸運でもあり不運でもあるということを。何故なら彼女は――」
「黙れ」
「黙りません――柊匠。貴方はかつて奈落の破壊者にして先触れの劫火、あるいは疫病と蝗の王の名を以って語られた。そう、粛清部隊ゼカリヤ最強の贖罪者『アバドーン』として。そして貴方は憶えている。自らがそこで何を失ったのかを――」
「――やめろ」
「伝令は『特定の個人に伝えるための言葉』を選ぶものです。故に言わせて頂ければ」
ヘルメスは続ける。無慈悲に、冷静に、容赦なく。
真実のみを、告げる。
「前回の選別時点では、聖痕(スティグマ)の示す賦活性が未だ低かったがために貴方は聖別対象から外された、とされている。しかし事実は違った」
「――やめろ、と言っている」
「雨宮惑はあなたの代わりに聖遺物を仮胎した――彼女は、当時弟代わりでもあり、恋人でもあった貴方の身代わりとしてステアウェイに赴き――逸脱した」
「止めろ!」
「貴方は当時すでにして実戦に投入され――いや、自ら奈落へと続く途に没入していた」
そう、それ故に匠は後々まで選別の結果も、意味も知らずにきた。ステアウェイに、スティグマタに潜む欺瞞の全てを。そして知ったときには、惑に関する全ては終了していて――彼に出来ることは、何も無かった。
「――貴方は幸運だったとは思いませんか?」
「……その後、俺に何があったかも知ってるのか」
「勿論。当時の状況には同情致します。ですが、貴方はそれを理由に自らの現状を容認できるのでしょうか。今、貴方に出来ることは何だとお思いですか」
「――どういう意味だ」
「早晩、灰村弥生は戦場に向かうでしょう。一人で――ひょっとしたら、すでに」
「!」
携帯を取り出す。弥生の番号をコールするが――繋がらない。
「俺を、誘い出したのか?」
「おっと、勘違いなさらぬよう。足止めのためにこんな回りくどいことはやりません。いずれにせよ、一度事務所に戻って確認されることをお勧めしますね」
匠は立ち上がろうとするが、ヘルメスはそれを制した。
「まあ、もう少し聞いていきませんか?」
「…………」
怒りを押し殺しつつ、匠はこの場に留まった。一秒でも時間は惜しいが、この男がまだ語ることがあるなら聞く必要があると思った。
「これ以上、何を聞けと?」
「彼女には二つ選択肢があった。戦場に一人でゆくか、二人でゆくか」
「――俺を、気遣ったと?弥生が?」
「今の時点で、貴方に彼女が何も告げていないとすれば、その理由は何故か?ということです」
彼女は貴方の現在の能力を理解している。だから彼女のために貴方が消耗することを恐れたのでしょう、と彼は分析する。
「ですが私は逆に問いたい。逃げることも出来ないのならば、貴方はなぜ力を彼女のために使わないんです?ASDの副作用が、などと言い訳をするのですか?彼女は何のために――誰のためにたった一人で戦いに赴こうとしているのですか?ほかならぬ貴方のためではないのですか?」
一気に畳みかけた後、一転して静かな口調で伝令使は結んだ。
「――匠さん。貴方は彼女に、何をしてやれるのです?」
それまでと変わって、優しいといっていいほどの柔らかな口調だった。
「まあ、あえて答えが必要な問いでもありませんがね――そろそろ出ましょうか」
会計をヘルメスが勝手にすます。
「おい」
「何、時間をとらせたお詫びです。ここで失礼しますが――最後に」
まだあるのか?
「惑さんからの伝言をお伝えしておきます」
再び、耳を疑う。
雨宮惑――何故幾度も、お前はその名を呼ぶ。何を知っている?
「士針基底聖句第十三章。とにかく読め。そして行動しなさい。――だそうです」
「あんたは……一体何者だ?」
「僕は、ただの伝令使ですよ――誰の、とは申しませんがね」
「待て!惑はどこに居る?」
「――では、また」
瞬きもせぬうちに体を翻すと、彼は空間の隙間に滑り込むように――消えた。
跡には、見事に何も無かった。

「腹痛?」
リアは首をかしげた後、笑い出した。
「可笑しくて私が腹痛になりそうだ」
「笑わないでよ!僕だってナーヴァスになることはある」
今日一日、トイレに篭りきりだったレインが反論する。軍医の診断は神経性の胃炎、だった。
「それぐらいの痛み、私に言えば何とでもなったものを。そもそも君が何を悩む?」
リアに言うのはさすがに恥ずかしかったのだが、今となっては隠す意味もない。
「だって……殺しちゃうかもしれないし。あんなに可愛いのに。加減を考えると、さあ?」
リアの眼がすう、と細くなった。ふう、と息を吐く。レインも師の変化に気づいた。
「――リア師?」
「君は、甘すぎるね」
笑みを浮かべたまま――リアは殴る。
レインは派手に吹っ飛んだ。
リアの顔はあくまで笑っている。しかし、その目は。
一言ずつ、噛み含めるように、リアは言葉を放つ。表面はおだやかなその口調に、しかしレインはつま先まで冷えるかのような悪寒を感じた。
「君も聖別者たらんと欲するなら、覚えておきなさい。油断すれば、死ぬのは君だ」
薄く笑みを貼り付けたまま、師は弟子に宣言する。
愛というにはあまりにも重く、鉈のごとくその言葉は切りつける。繭を切り裂き、現実を見せる氷の刃。
「神は油断を好まれない。鳩の如く素直に――なれど蛇の如く賢くあれ、だ。解ったかね?」
はい、と背筋を伸ばし返答する。そう、彼レインは理解する。
この戦いに、手加減などという言葉は思い浮かべることすら不要。相手の生死を忖度する余裕など、自分にも弥生にも許されてはいないのだと。
私のあとについて唱えなさい、とリアはヨシュア記の一節を詠ずる。
「――あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ」
その聖句はレインの心に釘を打ち込み、壁に繋ぎとめる。義務と言う名の、冷たい石の壁に。
壁には書かれている。聖別者の意味、選別を戦うということの意味が。
それは己が力を振るうことを許す代償に、己の心を神の名が縛ることをも許すのだと。
レインは唱える――自らを縛る言葉を、半分は自らの意志で、半分は義務感によって。
「よろしい。神は我らを強くする――我らはエゼキエルの如く己を捨て、エリヤの如く神の望むところの務めを果たす――そうだね?贖罪の言葉は、最期の時まで取っておきたまえ」
「はい――リア師」
にこり、と使徒は微笑む。その顔にはもう、先ほどの冷気は無い。
「――宜しい。さて、ヨーグルトでも食べないかね、レイン」
胃腸にも良いと思うのだがね――そう言って、リアは笑った。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック