創作「A Change Of SeasonsⅨ」

-ChapterⅨ-

二年前のあの日。全てを失い、虚無だけを抱えて日本に帰ってきた。
孤児院に足が向いたのは、身元引受人がそこにいたというそれだけの理由だった。
灰村施療院とその横に建つ孤児院「ひいらぎ館」は院長・灰村幸四郎が神父を務める小さな教会の裏、背中合わせに建っている。主たる収入は施療院から得ているはずだが、相変わらず繁盛しているようには見えない。
「久しぶりだねえ、匠君。大きくなったものだ」
灰村は一人で三足のわらじをはく苦労人だが、世話好きな性分のせいか多忙な生活をむしろ楽しんでいるように見える。平日の午前中は診療、午後からは教会で孤児院の子供たちに講義。学校に行く前の年齢の子供たちは、午前中に孤児院と教会での日課を済ませたあと庭で遊んでいるはずだが、すでに黄昏に近い時間帯ということで教会も孤児院の庭も静かなものだ。
「最後に会ってから五年はたつか。成人式はちゃんと済ませたかね」
忙しかったので、と苦笑する。今までの生活を考えると、成人式と言うものの存在自体が奇妙に思える。考えて見れば普通の若者らしい事は何一つしていないな、と思う。
「仕事については追々考えるといい。しばらく院の仕事を手伝ってもらえれば有難いがな」
「ご好意感謝致します」
「部屋は余っておる。自由に使うといい」
「懐かしいですね。昔は一階だったかな」
ふむ?と院長は考えたのち、おお、と手を打った。場所を思い出したようだが。
「すまんが、以前の君の部屋は今別の子が使っておってな」
「俺はどこでも構いませんよ。今はどんな子が?昔会ったことはありますか」
うむ……と再びやや考えていたが、
「いや、君とは多分会ったことは無いはずじゃな。ちょうど良い、引き合わせておこう。この時間なら起きているとは思うが、彼女は少々足が弱くてな」
松葉杖が欠かせんのだ、と優しい口調で言う。
「女の子ですか」
「うむ、今年で十三才になる――弥生、いいかね?」
「……どうぞ」
中から落ち着いた声が聞こえた。ベッドから上半身を起こした状態で本を読んでいたのは、短めに揃えられた黒髪の少女だった。小さな顔をこちらに向けると、一瞬匠の存在をいぶかしんだようだが何も聞かずに礼をする。礼儀正しい子だな、と思った。
「すみません、こんな格好で」
「いや……」
気にしないで、と言いかけて凍りつく。この子は――?
「まどか……?」
「――何か?」
首をかしげる少女。院長も少々戸惑っている。匠ははっと我に返ると、二人に謝った。
「ああ、すみません。知り合いに似ていたもので」
「……そうですか」
続けて良いかな、と院長は匠の紹介を再開してくれた。
「彼は以前ここに住んでおってな。しばらく居ることになると思うので宜しく頼む」
「――柊匠です」
「灰村弥生です」
丁寧に返答した後、彼女は名に思い当たったようだ。院長から聞いていたのかもしれない。
「そうすると、この部屋の先輩なんですね」
「ああ――良く知っているね。よろしく頼むよ」
「……はい、こちらこそよろしくお願いします」
そういって、にっこりと笑った。
――透き通るような、笑顔だった。
部屋を出た後、院長に彼女について詳しく聞いてみる。匠にはいくつか疑問が生じていた。
例えば苗字のこと。灰村の妻に子供はいなかったはずだった。
「無論、家内の実子ではないよ。幼い時は別の教会に預けておったから、当時の君も知らぬはずだ」
十三年前のある三月の朝、彼女はここの門前で発見されたのだという。
「弥生のゆりかごには、これが共に入っておった」
戸棚の奥から取り出してきたのは、どこにも綴じた部分のない純白の封筒だった。
カッターで開けた跡がある。これは――
「この封筒の意味は知っているじゃろう。君が我々「揺り籠の父(クレイドル・ファーザーズ)」の前に現れた時と同じじゃよ」
「聖者の素材たる独り子――ですが、それならば彼女の足は何が原因で?」
「うむ、小学三年のころ……約四年前じゃな。突如倒れてなあ。遺伝子疾患に由来する肉腫ではないかと言われたそうじゃ。それからしばらく入退院を繰り返しておったよ」
「あえてそんな彼女を素材の候補にした理由はなんでしょうか?その病も、今はどうなのですか」
「最初の質問については、儂には判らぬとしか言えん。肉腫については、それ自体は完治したようじゃが、足の筋力はもどらなんだ。結局原因も不明じゃよ」
退院したのは良かったものの、それから学校には行こうとしないのだという。
「だから、あの子には余り友達がおらんのだ。子供たちもわしらの養子というので少々隔意があるらしい。特に分け隔てはしておらんのだが、あれは賢い子でなあ――自分から一歩引いてしまった」
よければ弥生の話し相手になってもらえると嬉しいのだが、と院長は言った。真実だろう。
灰村は昔からえこひいきの無い人だった。匠は一瞬答えに詰まったが、結局頷く。正直、最初から決心していた。
もし弥生が、「彼女」と関係があるのなら。
――自分は逃げることは出来ない、と。
「――俺などで、よければ」
「将来は通訳や翻訳の仕事などをしたいといっておってな。君は外国語も詳しかろう。勉強を見てくれとまでは言わぬが相談に乗ってもらえれば弥生も喜ぶと思うのだが」
「……俺のブロークンな発音じゃ混乱させるだけだと思いますが」
「何、実践に勝る学習はないというではないか」
からからと笑った後、灰村は向き直って尋ねる。先程の匠の動揺、その理由についてだった。
「ところで、先程『まどか』と口にしておったが――ひょっとして、それは雨宮家の」
「――すみません。守秘義務がありまして」
自分の返事はわずかに早すぎなかったろうか?それは果たして、義務からの言葉だったろうか――それとも、後ろめたさからだったろうか?
「……そうか、いや忘れてくれ。つまらぬ事を聞いたな」
四年前。ならば「彼女」の逸脱のすぐ後という事になる。偶然のはずはない、と匠は思う。
恐らくスティグマタの上位者たちにとっては、すべて折込み済みの事態なのだろう。弥生の病も灰村の心の動きも、匠がこの地に戻ってくることも。そして彼が――彼女を放り出してゆけるはずが、無いことも。

――弥生は賢い子だった。時間はいっぱいあったので、といってはにかんだように笑うのが常だった。
語学に才能があったのも幸いした。発音も文法も吸収が早く、それぞれの言語における思考方法も速やかに理解した。匠が看るようになった時点で英語はすでにネイティブ並みだったが、弥生が次に選んだのはイタリア語だった。匠は何故、とは聞かなかった。
――思えば、あの時すでに、弥生は知っていたのかもしれない。
ある日。階段脇のスロープを松葉杖で下りてくる弥生に会った。二階で何かあったのか、と聞く。
「麻衣ちゃんに絵本を読んであげていたのですけど――眠ってしまって」
彼女は年少組には良く慕われている。中でも麻衣は寂しがりで特に弥生に懐いていた。
思ったよりすばやく、弥生は杖を突いて降りてきた。急いだら危ないぞ――と言おうとした、正にその時。
とん、と斜めに杖を突いた瞬間、突然ヒビが入ったかと思うと――折れた。
弥生がバランスを崩す。匠もあまりに突然で間に合わない。
「きゃあ!」
転んだ。
ああ、少し顔を打ったらしい。……痛そうだ。
「……あう」
幸い傷はないようだ。鼻血も出ていない。匠は助け起こす。
「大丈夫か?ほら、つかまって」
「……杖、折れちゃいました」
弥生は戸惑っている。確かにそう簡単に折れるようなものではないが。
「ん?そうか……よし」
折れた杖を脇によけ、もう一本は後で届けることにする。
肩を貸そうかとも思ったが、身長差もあったので別の方法を選択することにした。
「ひゃう?」
よっ、と抱き上げる。……想像していたより、更に軽い。
「お――弥生は、軽いな」
抱き上げると必然的に顔が匠の近くに来る。かあっ、と弥生の顔が一気に赤くなった。
「あれ……?」
急に重くなったような気がする。弥生?と見ると、彼女の全身がびくびく、と動いた。
「ああわわなな何でもないです!」
ああ、暴れない暴れない。危ないから。緊張してるのか?
「恥ずかしいなら降ろすが」
「………………」
しばらく弥生は俯いたままだったが、ややあって蚊の泣くような声で答えた。
「お願いします……部屋まで」
部屋には予備の杖があるという。移動している間中弥生はほぼ硬直したままで、匠の顔も直接見ようとはしなかった。匠も何か見るのが躊躇われ、とりあえず前だけを見て歩く。
緊張しているから重く感じるのか?普通逆だったような、と思いながら弥生をちらりと見る。
しかし変わらず酷い緊張ぶりだ。嫌われたかな?とか思いながら片手でよいしょ、と部屋の扉を開ける。ベッドに降ろしてやるとようやく落ち着いたようで、その後しばらく世間話をした。
その時の言葉を、匠は後で思い出すことになる。
「最近――なにか変なんです。歩いていると急に杖が軽く感じたり――さっきもそれで折れた方に体重を預けてしまって」
当時は、その言葉を疑う必要もなかった。そんなものか、と思っていた。

――子供たちの相手は、結構疲れるものである。が、無心になれること自体は楽しかった。
その日も玄関の脇で煙草を吸っていると、麻衣たちに外から呼ばれた。
「おじちゃーん!遊んで!」
「おじちゃんは禁止だ。お兄さんと呼べ」
等とふざけているのもまあ悪くなかったのだが、その日は何故か最初から違和感があった。
ふと建物に眼を向けると、窓から弥生が外を見ている。その視線がどうも気になった。
「――どうも放っておけないと思ってしまうのは、良くないことだろうか、な」
まあ、仕方ない、と独りごちて、彼女の部屋をノックする。
「……さびしくは、ないです」
予想通りの答えだった。嘘だとまる判りなのも予想の範疇だ。
「嘘は、つかなくていいんだぞ?」
「――でも」
「一緒に遊びたい?」
ややあって、弥生は何かを決心したように呟いた。
「……ドアを閉めてもらえますか」
何をする気だろう。言われるままに扉を閉め、外界を遮断する。
「見てて下さい」
一瞬後――匠は目を疑った。
一歩、又一歩。しっかりと力強く。
杖無しで、普通に。弥生が――歩いた?
「すごいじゃないか!ずっとリハビリしてたのか?」
「……確かに、歩く練習もしてはいるのですが」
珍しく眉間に皺を寄せて考えている。適切な言葉を捜しているらしい。
「――何といったらいいのでしょうか」
ごそごそ、と収納棚から取り出したのは。
「これ」
四キロの鉄アレイ?
何故こんなものが女の子の収納に、と言う疑問には弥生は応えず。
「私の手に、乗せてください。で、見ててください」
仕方なく言われるままに乗せる。小さい掌の上に、危うくバランスを保った鉄の塊。
見ようによってはシュールな光景かもしれない。表情が真剣なのが一層奇妙だ。
「――おてだま、します」
あ――。それは、ふわり、と言う表現が適切か。
弥生がぽん、と上に弾くと鉄アレイが宙に浮き。
軽くなった?と匠が呆然とした、次の瞬間。
「あ」
がごん。床に派手な音を立てて落ちた。木造の床がみしりと歪む。幸い、割れはしなかった。
「……失敗なのです」
しょぼん、と肩を落とす弥生。
匠は今の光景についてしばし考えた後、聞いてみる。
「――触れた物体や自分の体の質量を、軽く出来る?」
弥生の足の筋力でも支えられるほどに。
「――重さを増やすことはできません。今のところ、出来るのは重さを減らすことと、維持したところから好きな時に解除することです。今は手を離したとき、気持ちも離してしまったので失敗なのです」
「……触れていなくても効果が持続するのか?」
だとするとかなり凄い力のような気がする。
「最初と最後は触れないと出来ないみたいですけど、まだ上手くイメージ出来ないのです。慣れたら手以外で触れても出来そうですけど。でも、すぐ疲れてしまって」
「この力に気づいたのは?」
「半年前くらいでしょうか。歩くことに使えそう、と思ったのは最近なのです。それまでは、杖無しで歩こうと思ったことすらなかったですから」
「……ひょっとして、あの時も?」
「はい。身体だけ軽くしている筈が無意識に杖も一緒に軽くしていたようなのです。振り回して勢いがついたところに変な角度で突いてしまったので――いや、痛んでもいたようなのですけど――」
何故か弥生はもじもじしていた。
「あの時、わたしは、匠さんに、本当のこと……」
「……ああ、そんな事か。当時はまだ自分でもよくわからなかったんだろ?」
今、弥生が打ち明けてくれた。俺にはそれで充分だ、と匠は本心から言った。
ありがとうございます、と弥生はほっとしたように笑った。
以外と気に病むタイプなのだろうか。
それから、おずおずと言葉を選ぶかのように、匠に聞いてくる。
「……思うのですけど、もしもっとこの力が上手く使えれば、みんなと走ったり遊んだり出来るでしょうか?」
麻衣とかと、遊べるように、か?――そうだな、きっと大丈夫だよ、と匠は励ます。
「はい――あと、実はもう一つ、やってみたい事はあるのですけど」
「それは何?」
「――ふふ、まだ内緒なのです」

「揺り籠の父(クレイドル・ファーザーズ)」に託された封印無き白の封筒は「素なる独り子」すなわち能力者の素材
たることを認識して育てよとの無言の命令。すなわち聖別者の候補であることの証。
贖罪者の行動指針たる「士針(ギデオン)」には能力の発現を観測した場合、速やかに上層部に連絡すべし、との報告義務があるが、匠はまず院長に尋ねてみることにした。
「ああ、六年前からいつか発現するのではないかと思っておったよ。知ったのは最近じゃがね」
やはり。だが今まで何も言わなかったということは、答えは決まっているようなものだ。
「わしは……できれば彼女をそっとしておいてやりたい」
予想通りの答えだった。そして、それは匠とて同じ。
「報告するかね」
「……俺も、院長と同じですよ」
そうか、と灰村は笑った。しかしその眼は、何処となく疲れと怯えを写しているように匠には見えた。――そう、スティグマタ上層部は、けして甘くないし無能でもない。
実際のところ、秘密を抱えてどこまで行けるものか。
匠は、そこまでの答えを持ってはいない。
ただ出来るだけ、弥生と一緒のこの時間が続けばいい――そう思っていただけだった。

――木枯らしの吹く頃だった。
匠は近所を弥生と散歩していた。
弥生は杖を一本だけついている。歩行訓練の一環だった。
「だいぶ様になってきたのです。そう思いませんか」
並んで歩く弥生の口調もどこか弾んでいる。一日一日、進歩する自分が嬉しいのだろう。
「ああ、実際だいぶペースも上がってきたし。そのうち杖も要らなくなるんじゃないか」
「うーん、まだちょっと不安なのです」
「今、仮想体重はどのくらいに?」
弥生はちょっと怒ったような顔をして匠を見るが、眼はまだ笑っていた。
「……女の子に体重を聞くのは禁止なのですよ」
でも、多分六割ぐらいには出来ているのではないか、と彼女が首をかしげた、その時。
弥生が風に煽られた。軽くした体重が仇となり、容易に交通量の多い車道へ押し出される。
クラクションが鳴り響いた。匠はとっさに手を伸ばすが――届かない。
「危ない!」
「きゃっ……」
 匠は一瞬、幻視を見た。血の赤と、灰色の脳漿。それは過去に幾度となく見た――
「馬鹿野郎、危ねえぞ!」
罵声とともに、乗用車がクラクションを派手に鳴らして走り去った。
道路の脇に、弥生がへたりこんでいる。幸い、怪我は無いようだ。杖も無事。
「――良かった。びっくりしたのです」
弥生が嘆息する――本当に、良かった。
だが、俺は――視界が暗くなる。そして胃液が逆流する。
ああ、これは――フラッシュバック――畜生。
「……でも、ちょっと腰が抜けたかもしれないのです――匠さん?」
怖さを軽減するためか、少しおどけた口調で弥生が言うが、匠の様子を見て表情が変わった。
「がはっ……」
こんな時に。記憶が混濁する。
脳裏に断片として蘇るのは、爆音と破壊された村。
屍骸の山と十字架の林。ある少年の顔。消滅した病院の跡。
――そして何処か悲しげな、一人の女性の後ろ姿。
「匠さん!」
――贖罪者。
かつて俺はそう呼ばれていた。
だが、その名の真に意味するものを、そして謳われる本質と現出される事実の差を。
当時の俺は、少しも判ってはいなかったのだ。
過去の幻影とともに、匠の意識は闇に墜ちた。

――粛清部隊ゼカリヤ。
スティグマタにおける汚れ仕事を預かる部署。
彼らはあらゆる教会組織の不正と腐敗を隠密裏に処理するための掃除屋であり葬儀屋であり、同時に組織に外貨をもたらす派遣労働者であった。
すなわち、ヴァチカンの庇護を受けるスティグマタに属する身でありつつ、彼らはプロテスタント系教会や東方正統教会の依頼をも受ける。仕事は大抵、その地域における教会内の不穏分子及び能力者を含む不正者の密かな処分。口封じ。体制に抗する反対者の抹殺。教義を巡る闘争における傭兵。暗殺者。さらにはスティグマタ自体に叛逆し逃亡した者の抹殺。
そこに正義など欠片程度にしか存在しない。確かに大抵は組織、即ち体制側の言い分が正しいのだろう。殺された彼らは淫行を犯し収賄し日曜学校の生徒を虐待し人を殺し自然を破壊し男色し飽食し堕落していたのだろう。
依頼者の言葉を全て信じるならば。
しかし、現場において任務を執行する粛清部隊に、真実が何の意味を成すだろうか。彼ら実行者が見るのは常に恐
怖に見開かれた羊の――抹殺対象の眼でしかないのだから。
とある国では、プロテスタント系教会の告発でカトリック教徒を殺したことすらある。その国ではカトリックは少数派だった。
ただ少数であるが故に罪とされることがある――と当時の隊長は陰湿な笑いを浮かべたものだ。
ゼカリヤにこのような酸鼻な所業が可能だったのは、そもそも彼等が敬虔な「真の」教徒ではなく、教会と契約しながら教会そのものではけしてないスティグマタに職業的殺人者として雇用される「神の名をもてあそぶ輩」に過ぎないからだ、と言う批判がある。
それは一面において正しい。しかし同時にこうも言える。かつての教会がやってきたこと、いやキリスト教徒に限らず、それぞれの神を信じる者たちが彼等が異教徒と呼ぶ者たちに対し今も行っていることと、一体どれだけ違うというのか、と。
神の名において罪を隠し、罪が罪たることを認める事を拒否する者、あるいは気づきすらせずに罪を重ねる者たちが一体世界にどれだけ存在するというのか。神の名において愛を唱える者の無意識は、はたしてどこまでを範疇としているのか。敬虔さを誇る者は一体自分を省みてなお無心に愛を語れるのか、と。
他者の批判がどうであれ、粛清部隊はそのままの存在であり続けた。内部の人間に葛藤がなかったはずはない。彼等は前提の正しさを信頼することでしか自ら劇薬であることに納得できなかった。
しかし同時に、それが常に信頼に足らぬことも知っていた。知っていて、行動し続けなければならなかった。ゆえにスティグマタ全組織中、反逆、脱走者、辞職者及び精神を病む者は常に粛清部隊から最も多く出た。
しかし、匠は辞めることはなかった。前提をただ信じる事によって、納得できぬ現実から逃げていたのだ。
任務の後に祈る――当時彼が求めた代償は、その程度でしかなかった。
「神よ、私の罪をお許し下さい」
彼は、この言葉だけでどんな非道でも平然とやれた。誰を殺しても、誰を絶望させても、どんな嘘をついたとしても。神の前では全てが洗われていくような気がしていた。それはすなわち、胡桃割りが死の直前まで感じていたであろう境地と本質的に変わらない。ある意味、当時の匠は生きながら既に奈落落ちしていたのだ。
贖罪を受容する事とは、贖罪することで神が自分を受け入れてくれるという事。それを信じてもいいのだ、と理解していたのだ。――あの時までは。
思い返せば、養成所の教師だったカルロ・レヴィが講義のつど述べていたことがある。
「神を信じる行為は救われるために信じるということではない。例えば、エゼキエル書の一節にはこう書かれている」

 わたしが悪人に向かって「お前は必ず死ぬ」と言うとき、
 もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さぬならば、
 悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。
 また、正しい人が自分の正しい生き方を離れて不正を行うなら、
 わたしは彼をつまずかせ彼は死ぬ。
 あなたが彼に警告しなかったので、彼は自分の過ちのゆえに死ぬ。
 彼が成してきた正しい生き方は覚えられることはない。
 また彼の死の責任を、わたしはあなたに問う。 


「ここから読み取れるのは何か。普通の読み手は悪人を悔い改めさせるためにあなたは努力しなさい、それをせずただ自分だけ清浄で敬虔な生活を行ってもけしてあなたは真に救われる事はない。主はそれを認めない――と読むかもしれない」
「しかしいずれ贖罪者の名を持つであろう君たちに私は告げる。贖罪を受容するとは――すなわち罪を自動的であれ他動的であれ引き受ける以上は、贖罪は見返りも終わりもないものであることを受容せよとの意である、と私は理解している」

 正しき者が正しき生き方を離れ躓き滅ぶ。
 彼がそれまでしてきた正しきことは記憶される事はない。
 また、それをもし見捨て放置する者がいれば、その者もまた同様に滅ぶ。


「ならば神の名において罪を犯す者は既にそのとき躓いているのであり、決して信仰のみで救われることはない、という別の理解――私の考えでは当然だが、多くの狂信者には受け入れ難い見解を含んでいると思う。それゆえに、私はこれから多くの罪を負うであろう君たちに告げる。神の名において行ったから無罪、ではなく行った後たゆまず贖罪を全うしてなお、救われると限らないことを受け入れよと。自らの意思によって信仰と罪を等しく選び取れ、と」
「君たちはひとたび贖罪者となったならば、その名にふさわしくあり続けねばならない。もし罪を背負い続けたその果てになお信仰を保てるならば、神の名を唱えずとも神が君たちの中にいることを知るだろう。狂信とただの信仰の間に一切の境界はなく、善悪の彼岸もまた無い。ただ信じるのではなく、信じるもののために何を為すべきかを思考し試行せよ、そしてそれを行い続けよ」
しかし匠にとって当時は、信仰そのものが正義と同義だった。例えそのために幾千の罪を負おうとも。
レヴィの言葉に二つの面があることに気づいたのは、ずっと後のことだった。
「――神は与え、神は奪う。しかしヨブの受けた仕打ちを理不尽と取るのは君たちが任務を生き抜き達成することにおいては正しい。理不尽なる神の仕打ちを、君たちは受け入れた上でなお認めてはならない。なぜなら、君たちは神の理不尽に人の論理をもって抗うものであり、救いを求めないことを選び取る者でなければならないのだから――」
――ゼカリヤ在籍時最後の任務である「サラザール掃討戦」によって受けた負傷は、匠の戦闘に関する経験記憶と能力本体に多大な損傷を与えた。「記憶喰らい(メモリーイーター)」と呼ばれた最強の贖罪者にして最悪の逸脱者であったサラザールの抹殺は困難を極め、匠の部隊は捕獲と引き換えに匠ともう一人を残し壊滅した。
同時にムスリムの村がふたつ、文字通り消滅した。彼らは民間人だった――サラザールとは何の関係もなかった。
完全な、巻き添えだった。ただ匠たちがそこにいたために、彼らは地上から消え去った。
瀕死の匠たちを回収したのは最終的に全てを収拾した使徒たちだったという。
逆に言えば、使徒級でもないとサラザールは手に負えなかったということ――ならば?
匠の部隊は半ば囮として使われたのだと、即ち、上層部は当初から、彼ら自身も村の住民も損耗の許容範囲として計上していたのだと後で聞かされた。
匠については、能力減耗と経験の消失により作戦遂行能力は八割以上低下し、もはや実戦に耐えうるレベルではない、と診断された。後方勤務への配転を命ぜられた匠は能力そのものと自信を同時に喪った。否、それまでの自分自身を丸ごと失った。
断片的に残された戦場の記憶は、どれも恐怖しかもたらさなかった。サラザールはその捩れた悪意ゆえに悪しき記憶だけを残したのかもしれないと医師は言った。
自分が使い捨てに近い存在として扱われていたのも匠にとっては無論ショックではあった。
だが、それ以上に彼を打ちのめしたのは無力になったことで気づいた現実。
本来同じ神を信じる筈の者達が殺しあう理由。
持たざるが故に、ただ少数であるが故に戦わねばならない現実。
それから、喪ったものと人に喪わせたものの大きさ。
自らの無知と鈍感により重ねた、罪。
救いを求めるなど。ましてや、あえて求めないなどと傲慢な物言いを出来るものか。
既に、自分には救われる資格など、永久に存在しないのだと。
――彼は見えない何者も信じない。神も信じるに値しない。いや、自分がもはや神を信じるに値しないのだと感じていた。
リハビリ期間として与えられた孤児院での日々も、当初思考を支配していたのは虚無感のみだった。
だが、弥生の顔を見ていると二つの感情が生じる。一つは、これまでとは質の異なる恐怖。
しかしもう一つは――

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック