創作「A Change Of SeasonsⅩⅣ」

-ChapterⅩⅣ-

とあるホテルの一室。テーブルには一台のノートPC。
周りの椅子やベッドには二人の男女が思い思いの格好で座っていた。
メール着信。先ほどまで戦場が映し出されていたディスプレイにメールの文面が表示される。
「裁司031より033、及び111より113まで。報告完了」
「裁定 6―0 勝者 灰村弥生 はコンシーリオと使徒長パウロ、並びに聖櫃管理者により認証されました」
ふう、と女が息を吐いた。
「やっぱりカメラ越しに見るのは心臓に悪いわー……」
自分が居れば強制力による介入を疑われる。だからあえて現場には行かなかったのだが。
「こっちのカメラまで壊されるとは思わなかったわ。あとで匠に請求してやろうかしら」
最後の場面はカメラ一基でしか見ていない。十二個設置したカメラのほとんどはAJのものと同時に破壊されたためだ。しかし――まあ、熱暴走で画像が飛んだ時点で何が起こったか想像は付いたのだが。
「やれやれ。まあ一安心かしらね……あちしは失礼するけど、どうするの?まあ、あんたは今日は暇でしょうけど」
男――真理王は夜羽に尋ねる。答えが判っていて聞いている顔だ。
夜羽にとってはむかつく話ではあるが事実。
もとより監視のために借りた部屋でもあり、撤収を急ぐことも無いし。
今匠のところに顔を出しても、正直お邪魔虫でしかない……それぐらいは理解している。
「そうね――せっかくだからこの広いベッドでしばらく一人寝を楽しむことにするわ」
どうせ帰っても一人だし。
……なんかひがみっぽいかも。
「あら、ご希望ならいつでもご一緒するわよん?」
「変態は丁寧にお断りさせていただいておりますわ、おほほ」
しっしっ、と手を振る。
「あんたはまず担当してる引きこもりを部屋から引きずり出してくることだわね!」
「ふふん――それは鏡子に任せてるのよん。樹を大きく育てるには気が長くないとね」
真理王は全く堪えていない。
――本物の変態には変態って罵倒は効かないのね、と夜羽は思う。
「あちしとしては、弥生ちゃんの成長が楽しみなのよん。最近は肉付きも少しずつ女の子らしくなってねえ。匠と今頃はしっぽりと――」
じゅる、とかいう音が聞こえる。
「涎たらすな変態!妄想は帰ってからひとりでやんなさいよ」
「はいはい、と。夜羽ちゃんの妄想の邪魔はしないわよん」
「帰れ」
「あっはっはー。じゃね(はぁと)」
気持ち悪い語尾を残して、彼は扉の向こうに消えた。
――夜羽は速やかに悶々としてしまう。
悔しいが、真理王の言葉で逆に妄想に火がついてしまった。
「……匠と弥生が?」
しっぽりと、ね。そりゃ有り得るだろうけど。
でも聖別者は本来処女童貞が原則だし匠はともかく弥生はまだちょっと早いんじゃない?
「……後見人として認められないっつーの」
というよりむしろ面白くない。
もしそんな状況に遭遇したら、とりあえず匠のソレを縦に三枚に下ろしてから七回ぐらい半殺しにしよう――そうしよう。決めた。
どさり、とベッドに仰向けに寝転がり、呟く。
「ったく、匠の馬鹿のおかげであたしはいっつも貧乏くじよね……」
もう一つ思いつく。
――今度、奴に和牛ステーキでも奢らせてやろう。夜羽と弥生の二人分を。
匠には何を食わそう。弥生が許可すれば鉄を食らわしてやってもいいぐらいだが。
「ポテトでも食ってろ、ってか――」
とりあえず、眠かった。

カンサス内部で男たちが会話している。一人はリア、もう一人は海軍の士官だった。
「レイン君はどうですかな」
「眠っていますよ。だいぶ落ち着きました。今回はやられました。貴官らには苦労をかけます」
「なんの、神父様。戦は始まったばかりでしょう」
わが合衆国の誇りに掛けて、次は勝とうではありませんか、と士官は熱っぽく語る。
「神の恩寵は我らとともにありますぞ」
能天気な、と思ったが彼なりの慰めなのだろう。リアは薄く笑いを返す。
「しかし、聖別者といい贖罪者といい――彼らは一国の軍に匹敵する、とは良く聞かされておりましたが、今回改めて実感致しました」
だが日本人の聖別者については正直、何故あれほど強いのかよく解らない――と士官は言う。
信仰の薄い、確たる神ももはや居ないこの国に、何故彼らのような者が生まれ得るのか、と。
リアにもその答えは解らない。そもそも、信仰の違いが能力の差ではない事をリアは知っていたが、この単純なAJの士官にそう言っても、多分通じないであろうこともまたよく知っていた。
最も、リア自身にも疑問はある。
夜羽が匠を介添人として推したのは、心情的にまだ理解できる。
だが、その夜羽すら、匠があの状態に至った真の理由を知ってはいない。だからこそ、それを知る中で委員会に発言力を持つ者――例えば使徒長のような連中がそれを認めた理由が解せなかった。
(弥生を勝たせたいだけなのか――あるいは匠の再生こそが目的か?それとも――抹殺か)
「――あるいは特定の神を持たぬが故、なのかもしれないがね」
短くそれだけを告げて、士官のもとを離れたリアを今度は別人が呼び止めた。
「リア師――エレミヤより背教騎士団(ジュデッカ)と『旅神』が動いているとの報告が」
匠に敗れたグラウディンだった。まだダメージは残っているはずだが、もう任務に戻る気らしい。
根が真面目な男ゆえ、魔や異端に関する情報となれば居ても立ってもいられないのだろう。
「伝令使の手配りか?中々行動が速いね」
「――どうやら、ステアウェイに注目しているのは教会関係者に限らぬようですな」
AJ管理下の量子計数機(ユーコニドール)によると、旅神のシンパが運営している会員制掲示板に騎士団の署名付きで暗号化された聖別者の情報と解読コードが既に流出しているという。
「また、エレミヤからはエシュロンⅢやモサド系列企業の通信監視システムからも同様の二次情報が検索された――と」
「ふむ――目的は存在のアピール、かな?我々は常に教会を監視している、という」
あるいは撹乱か。だが旅神も動いているとなれば楽観は禁物だろう。
――旅神。それは旧き蛇たちの眷属。自律性の残響たる屍族供の隠れ蓑、あるいは忌むべき血族の共同体。
既に放逐された神々の名を唱えつつ、欲望のために振るまう輩の集い。
混沌に身を委ね、外法を己に課して全てを求めつつ、なおそれと等価な狂熱をもって虚無に焦がれる者。
背教騎士団と似て非なる彼らの行動原理は、しばしばスティグマタにとっては脅威である。
「惑の件もあります故――何か企んでいるやもしれませぬ。あるいは賭けの胴元でもやる気か」
不謹慎とも聴こえる言葉だが、リアとてそれを責めはしない。
――もし神がステアウェイを見ているならば、やはり戦いのたびに賭けているだろうから。
大体、スティグマタ内部ですら密かに賭けは行なわれているのだ。十二名いずれが勝ち残り「油注がれし者」に至る資格を得るのか――信仰や愛国心に帰属意識、あるいは単なる贔屓まで、興味の対象は人それぞれではあったにせよ。
「リア師よ――しかし、そうなると方々の集結は急務ですな。他の方は何時ごろ此処に?」
「オービットはカナダでの訓練終了後入国する、とアンドレアから通達済だが――ユダと『ディセンバー・フラワー』は私もなかなか連絡が取れなくて困っているのだよ」
米国組の使徒代表者がこの時期所在不明とはね、と嘆息しつつリアは今後について考える。
状況の整理と――場合によっては予備兵力が必要になるかもしれない。
レインの強化と、「ディセンバー・フラワー」をいざと言うときに抑えるために。
何しろ遊陀は放任主義が過ぎる――また、当然ながら他組織の妨害に備えても手駒は多いに越した事は無かった。
旅神や背教騎士団が何を考えているにしろ、ステアウェイを妨害することを認めるわけにはいかない。
「まあ、彼等が何を企もうと、君がこのまま正規の介添人となってくれれば大分安心できるのだがね」
リアは半分冗談で言ったのだが、グラウディンは性格かあくまでも真面目に答える。
「お誘い痛み入ります。しかし某の所属する分枝(ブランチ)は、現在太平洋全域に展開して任務を遂行中でして――」
今回は匠から「惑」の情報を得るためのイレギュラー故、継続して離任するにはやや支障がある、と言う。
「――惑、か」
最悪の逸脱者と呼ばれたかつての聖別者にして現在は「旅神」最高幹部――水天宮惑。
「ここ数年消息が途絶えておりましたが、今年に入ってから環太平洋諸国で目撃情報が相次いでおります。実を申しますと、今回の我々の任務も限定指揮官より上からの直命らしく」
成程、彼女であれば確かに伝令使以上の大物と呼んで間違いないだろうし、探索の網が大規模でも不思議はない。とは言え、傘下の部隊に対しては使徒級の権能を有するのがイザヤ四隊の限定指揮官である。彼らの頭越しに部隊を動かすのはエリヤの長老部でも不可能だ。
それが可能なのは使徒会議の決定、もしくは使徒長の直命のみ――そして今年に入ってから使徒会議は一度も開かれていない。せいぜいコンシーリオの席上で何名かが顔を合わせる程度だった。
即ち、グラウディンの所属部隊は使徒長パウロの直命で動いているということだ。
であるならば、リアが彼を無理に引き抜くのは難しいだろう――本人の意志で無い限り。
「ふむ、残念だがそれでは仕方ないね。いずれにせよこれから増員するとなるとユダの裁可が要るか……」
手持ちの能力者と自らが持つ聖符だけでもステアウェイには対応できようが、横槍が入るとなれば予備兵力は必要だ。
伝令使が今回リアに接触してきたのも、言葉とは別に目的があってのことだとすれば。
「……もう少し、締め上げておいても良かったかな」
リアが思うに、いずれにしても現況は他の使徒と聖別者を急いで集結させるべしと告げているようだった。
そもそも、ステアウェイを邪魔するのは必ずしも背教騎士団や旅神のような異端や魔とも限らない。
派閥としてはローマ・カトリックに属する(実際に働いている人間は決してそうではないのだが)スティグマタは、AJの主流派たる超保守的福音主義者――所謂ファンダメンタリスト達と必ずしも友好的なわけではない。
例えば、神と信徒が聖職者を介さずに直接結びつく事を望む教派に福音派と呼ばれる人たちがいる。
その中でも極少数の狂信者にとっては、恐らく聖別者という存在は優れて魅力的に写ることだろう。
だからこそ彼らもAJとして選別に参戦しているわけだが、内部はけして一枚岩ではない。敵は内と外、双方に存在するのだ。
「聖痕(スティグマ)を持つ者」それが「イザヤ」――贖罪者達の別名である。
しかし、それは神に祝福された者を意味しない。選別を勝ち抜くべく戦う子等が予め聖別者と呼ばれる理由と同じく、祝福よりむしろ呪詛がその名の内には秘められているのかもしれない。
ステアウェイ)の到達目標たる「油注がれし者(クリスト)」は今に至るまで顕現していない。
しかし、スティグマタの上層部は、そもそも未だに「その先」について語ったことは無いのだ。――いや、より正確に言おう。リアの如き使徒ですら、それを知らないのだ。
では全てを知り、彼らの行く末を指し示す者は存在するのか。
リアの視るところ、それは使徒長パウロを除いては存在しない。なれど――とリアはさらに思いをはせる。パウロですら、本当に全てを知っているのか。知っているなら、果たして全てを我々に告げているのか。
もし、未だ語られざる言葉があるならば――彼はいかなる時に、それを告げるつもりなのか?
――はて、そういえば。
語られざる言葉――と言えば、もう一つ確認事項があった。
「ところで、グラウディン――君、匠にわざと負けただろう?」
「は?な……何のことですかな?」
……下手すぎる誤魔化し方だなあ、とリアは思う。
「何――惑と匠の関係を聞かされているなら、当然ネヘミヤは弥生と惑の関係も把握している筈と思ってね」
「…………それは」
「君たちは――ネヘミヤは、弥生と匠を惑を誘い出す餌としたい。そうなのだろう?」
「…………」
「そのためには、弥生をステアウェイの初期で脱落させてはならない。だから、比較的勝ち易そうなレイン相手に星を落とさせるわけにはいかなかった――それ故、君は匠に勝ちを譲った」
「……師よ、買いかぶりすぎですな。某にそんな裁量が出来るわけがない。タクミが強かった――それだけの事」
「そうだねえ――そうなのかもしれないねえ」
リアはあくまで笑いつつ、グラウディンの銃で撃たれたほうの肩に手を載せる。
柔らかな仕草――しかしそれ故にグラウディンの身体からはどっと冷や汗が噴出す。
「……仮にそうだったとしたら、某を如何されるおつもりですか」
と言うかむしろこれから自分はどうなる運命なのだろうか。
「どうもしないさ。もし、匠があそこで現れなかったらレインは勝てていただろうかね?」
所詮仮定だ。起きた事実は曲げられないし、彼は生きていて今後の参戦に支障はない。
最終的に、彼が勝ち残るか生き延びていれば何の問題もない――レインに関しては。
「……ただし、条件がある」
今後については、釘を刺しておく必要があるだろうが――故にリアは、その手にわずかに力を込める。
「君と同程度に信頼出来る贖罪者を一人、レインに付けてやりたい。探してくれるかね」
「――リア師、それは」
「どうせしばらくグロッサラリアを拠点に情報収集するのだろう?レインを手助けしてくれないか」
「……彼を勝たせるために、ですかな?」
「違うね――彼に生延びてもらうために、だ」
この脅迫めいた要望も、そのために必要ならば――リアの眼はそう言っていた。
「…………」
ふう、とグラウディンは息をつく。
元より、師の言葉なれば尊重はしたい所――加えて、事情が事情なれば。
「どうかね?」
「――某の同僚は、多分某以上に多忙かと思われます故」
「ふむ――では?」
「……これも乗りかかった船ですな。タクミにあっさり負けた某をレイン殿が認めてくれるならば、謹んで承りましょう」
「ふふ――よろしく頼むよ、ブラザー」
「喜んで――ただし、指揮官に説明する際は、リア師もお口添えを願いたい」
「感謝する――こちらこそ、喜んで説得させて頂こう」

――何処とも知れぬ、とある場所。
内部の見た目は高級ホテルのスイートのようである。
夜羽達のいた部屋もまずまず立派だったが、比べると雲泥の差だ。
「ポテトでも食べる?もう冷めてるけど。嫌ならルームサービス頼むけど、どう?」
「有り難く頂きましょう。世界中何処でも同じというのは少なくとも安心だけは得られますな。味はともかく」
「あなたみたいな生活だと、むしろこんなものが懐かしいの?」
「ファストフードなら大丈夫だろうと思って変わったメニューを頼むと、失敗することもありますがね。先日は飲み物で酷い目に会いました」
窓際の椅子で一組の男女が会話を交わしていた。間の円卓には何故かファストフードの紙袋が散乱している。
部屋に似合わぬことおびただしいが、彼らは気にもしていないようだった。
「食事の苦労も含めて、と言うべき?――お役目ご苦労様」
「なに。他ならぬ貴方の依頼ならば」
その口調には恋人同士のような親密さは無いが、にもかかわらずその会話には相互の理解が垣間見える。
一言で表現するならば――同類項、というところか。
「彼らは上手くすませたみたい?」
「とりあえず、キスまでは何とか」
「もう……解っててからかってるの?」
あくまで返答は冷静だが、口調にはどことなく拗ねた響きがある。
最も本心というよりは、あくまで期待に添ってみました、という類に聞こえるが。
「軽口だけが取り得で」
「それは昔から知ってる。今後はどう――勝ち抜けそう?」
「さて。チャンスはあると思いますが、他の聖別者も一癖ありますので、中々。ハーディの詩はいささかきつかったのでは?あれでは彼女がすぐにでも死ぬといわんばかりだ」
「女から逃げないことを決めたなら、男は女の質に見合う努力をしなさいということ――かな。夜羽もきついこと言う割には結構甘いから、さ」
女性はポテトを一個だけつまむ。ちょっとした仕草が、どこか品のよさを感じさせる。
「彼女――足のほうはどうなの。再発の可能性はない?」
「肉腫は完治済みと見て良さそうです。むしろ聖遺物との相性が問題ですが、一つ手は打っておきました」
「そう。医学の進歩と、あなたの超速弦語――オムニス・ストレピトゥスに感謝、ね」
今度の口調は心からの安堵を思わせるものだった。
「貴方のほうは順調ですか」
女性は肩をすくめる。
「見ての通り――神の恵みに拠るままに、よ。あっちもこっちも同時進行。たまに面倒になる。そんなとこ」
「今からでも降りる事はできますよ――猟犬供が貴方を待ち構えているのはご存知でしょう」
「あら、その程度の危険を心配されるのね……私、あなたから見て弱くなったのかな?」
「まさか。その気なら世界全ての色を塗り変えることも出来る貴方がいったい何を恐れます?第一使徒ペテロ――それとも使徒長ですか?あるいは狂える神々の司祭たる『全ての蛇の王』――」
――いいえ、と彼女は断言した。
スティグマタを統べる二人、そして屍族たちを統べる「眷属」の末裔。
そのいずれも大した問題ではないというように、彼女は淡々と答えを紡ぐ。
「私が恐れるのは私自身。そして永劫の時間(アイオーン)――それだけよ」
「では、このしがない伝令が貴方に対して出来ることはまだありますかね?――レディ」
おどけて男が言う。しかし、その口調はむしろ真剣なものだった。
「あら――今度はいくら取るつもり?」
「貴方の言い値で構いませんよ。美しいレディに対する騎士道精神の発露ということで」
彼女はヘルメスを見てやや意外な顔をした後、くすり、と笑った。
「じゃあ――そうね、捻くれ者の騎士殿にはまたいくつか伝言をお願いしておこうかな?」
その笑顔は、誰かに似ていた。
「……今の内に、ね」


終章「Change comes around」

「があ……はっ」
夢を見た。引き裂かれる、夢。
目の前で、弥生と同じ顔をした少女が。
翼を持つ「何か」、荘厳で無情な顔の何かに巨大な槍で貫かれ、引き裂かれ。
それを見ることしか許されない俺もまた、その手に捕らえられ、握り潰されて。
「まど――弥生!」
吐き気と頭痛で眼が覚めた。
ソファの上。弥生の荷物を取りに来て、いつの間にか眠ってしまったらしい。
弥生は自分で着替えを取りにいくと言って嫌がっていたが、とりあえず今日は反論を認めないことにした。
下着の箪笥は「見たら死にます」と言われたので取りあえずジャージとTシャツ、寝間着と洗面用具だけ用意して。
――そこまでは、憶えているのだけど。
「ぐ……」
鈍い痛みと疲労が全身に纏わり付いていた。だが、額にはひんやりとした感触がある。
手をやると、濡れた手拭いが載っていた。
……まだ冷たい。これは?
薄暗がりの中、逆向きに椅子に座ってこっちを見ている顔があった。
背もたれに両手と顔を乗せて、はにかむように笑う。
「……へへ」
「……葉月か?」
「また……きちゃった、さ」
鍵かかってなかったし事務室の電気はつきっぱなしだったし無用心だなーと思ってのぞいてみたのよ、と何か言い訳するように一気に喋る。
「そしたら、なんかうなされてたから――さ」
「――そうか。ありがとう、礼を言う」
「ん……いいの。それより弥生ちゃんは?」
「今は検査入院中だ。荷物を取りに来たんだが……いつの間にか寝ちまったらしいな」
「大丈夫なの……」
「ああ、大したことはない。昔病気してるんで、その追跡調査みたいなもんだ」
「ふーん……怪我じゃなくて?」
「今回はかすり傷程度だ。安心しろ」
酸の火傷のことは伏せておいた。
幸い、リアの治療のおかげで跡は残らないだろうし、余計な心配をかけさせることはない。
「そう。で、アンタはどうなのよその傷。血ぃ滲んでるわよ」
グラウディンに受けた傷のどれかがうなされているうちに開いたのだろう。
「たいした深い傷じゃない」
「そう?でもさっきのうなされ方と汗ってどうなの?」
何故か怒っているようだ。何に対して?
「なんかクスリでもやってんの?禁断症状みたいだったよ?あたしにあんなこといっといてさあ。ちょっと格好悪くない?」
――ああ、そういう事か、と思った。そうだな、確かに格好悪いな。
「昔の、後遺症でな」
「クスリの?」
「薬も記憶もいろいろ、だ。弥生には、黙っててくれると助かる」
「ふーん……わかった。言わない」
「恩に着る」
「あ……ううん」
少し照れているように見える。
「とりあえず、包帯替えちゃうから、シャツも着替えたら?背中向いてよ」
手際よく包帯をほどき、新しいものに替えていく。器用だな、と感心しているとふふんと笑う。
「葉月さんにはいろいろヒミツの得意技があるのでーす」
ややあって彼女の声が真面目な口調に変わった。
「あのときのこと、聞くけど、さ」
――ああ。
「兄貴が……やられて。アンタが支えてくれて、さ。その前にいたのは、弥生ちゃん……だよね。弥生ちゃんが、兄貴の仇をとってくれたんだよね」
後ろは振りむかない。恐らく、彼女は眼を赤くしているだろうから。
「元々は、俺たちが巻きこんだようなものだ」
礼を言われる資格はない――そう続けようとした俺を葉月はさえぎった。
「それでも!」
聞いて、と葉月は続ける。口から出てきたのはラテン語の一節だった。

 Fortuna divitias auferre potest,non animum.
 ――運命は財産を奪うが、意志は奪えない。

「……読んだのか、あれ」
十字架に刻まれた、その言葉。
「ネットと辞書で調べたの。兄貴のお墓に来てくれたのが嬉しくてさ。何が書いてあるのか知りたくて――最初は兄貴に合う言葉かしらと思った。でもそのうち、むしろあれはあたしに向けた言葉なんだって思ったの」
これもまた、儀式だ。彼女なりの、兄の死を乗り越えるための儀式。
葉月は一気に心の内を吐き出すように話し続ける。
「兄貴は、兄貴なりに正しいことをやろうとして死んじゃったけど。その気持ち自体は死なないんだって――あたしが兄貴を憶えている限り、死なないんだって」
必死で、何かをこらえているように見えた。
「だから――ありがと」
匠は息をついて、葉月と向かい合う。うつむく彼女の頭に手を置く。
「顔、見ないでよ」
「見ない。有難う――弥生も嬉しがると思う。葉月があの言葉を読んでくれたなら」
あれは弥生が自分で刻んだから。
すすり泣きながら、それでも自分だけで彫ると言って聞かなかったから。
弥生なりの、葉月への謝罪。
「そうなんだ……」
俺がそれを見てたのは弥生には内緒だけどな、と言って、そこで思い出した。
「――そういえば、ひとつ頼みがあるんだが」
――まあそりゃそうよね、と言いながら葉月は箪笥を物色する。
「弥生ちゃんもお年頃なのよねー」
それらしい下着を葉月に見繕ってバッグに詰めてもらう。
「ハイ。中みちゃ駄目よ変態さん」
見ねえよ、と返す。相変わらず失礼な奴だが礼は必要だろう。
「すまん。あー、なんだ、また、時間があったら、会いに来てくれるか?」
葉月は何を当たり前の事――と言う顔をした。
「絶対来るよ」
そこで何か引っかかったのか、言い直す。
「弥生ちゃんに会いに!」
顔が少し赤い。
「アンタにじゃないから!勘違いしないでよね!」
「……ああ、どっちでもいいさ」
笑いがこぼれる。ああ、本当に。
「ありがとよ」
「……こちらこそ」
しょうがないわね、と言う顔でぼそりと言った後、気を取り直したかのように。
「よしっ!帰る!弥生ちゃんにもよろしく!じゃね!」
手を振って、背を向けて勢いよく出て行った。気恥ずかしいらしい。
踵を鳴らして、足早に階段を下りていく。快活な音がしばらくの間廊下に響いていた。
――気丈な娘だ、と思う。
見るからにまだ無理をしている。元気に振舞うことで必死に自らを支えようとしているように見えた。
しかしそれでもその足音は、前に進む意志を感じさせる。
遠ざかるその響きは、その発露にも聞こえた。
匠は残響を耳に留めながら、ゆっくりと深呼吸をしてみる。
汗と吐き気は嘘のように引いていた。
――あいつに元気をもらったかな、と思う。
ならば、まず出来ることをしよう。
これから病院に行って、弥生が目覚めるまで隣にいよう。
そして、明日以降も、傷ではなく記憶を刻んでいこう。
外はまだ闇の中――だがしかし、弥生の寝顔を見ながら夜明けを待つのも、悪くはない。
そう、匠は思った。
                                                                        

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