創作「桃泉学園事件簿(2)」

「篠森雛乃/烏丸景/入江靖章/二号書記」

桃泉学園高等部、本校舎四階中央。
窓から校庭が良く見えるその広々とした空間は、現在その全てが生徒会室及び会長の執務室に当てられている。
会長執務室は元々校長室だった部屋だが、現会長が一年生にして会長に当選すると同時に彼女の専用室となった。それはあっさり首を飛ばされた前校長にとっては晴天の霹靂であったろうが、彼女にとっては恐らく既定事項にすぎなかったろう。
現生徒会会長にして学園統括理事のひとり――普通科三年、篠森雛乃。
その「彼女の部屋」の中。
高価そうな巨大な執務机を、彼女は指先でとん、とん、と叩く。
その仕草だけが内心の表現。
顔はあくまで無表情のまま、雛乃は前に控える男子に言い放つ。
「気に入らないですわね」
「……私の顔が、ですか?」
「ええ、それも含めて」
「……会長、なにとぞ不快で愚鈍な我々にも理解できるよう話を進めて頂けませんかね?」
あら失礼、と雛乃。その造形も性格も完璧なお嬢様な彼女ではあるが、奥床しさとか他人に対する遠慮などとは全く縁がなかった。
「中等部の子の話よ。行方不明からすでに一週間。未だ発見されてないと聞いたわ」
「……家出誘拐遭難事故。会長はどれが一番可能性があるとお考えで?」
「貴方はどう思うのかしら、書記長?」
生徒会書記長――普通科二年、入江靖章。
「寮生ですから、家出と言っても考えられるのは家庭問題より周囲の人間関係でしょうが、当該生徒の評判は良好、誰かと問題を抱えていた様子もありません」
「続けて」
「誘拐については今だになんのアプローチも無いことから、少なくとも金銭目当てということはないかと。監禁目的なら別ですが」
「……それはそれで嫌な話ね。あと二つは」
「……この学園の立地を考えれば、こちらが一番ありえることですが――中等部教師陣による捜索は一向に効果を上げていません。携帯は不通ですし当日の彼女の行動も未だ不明確なままです」
「でも、監視カメラには正門を出る彼女が写っていたのでしょう?」
「そのようですね」
「外泊申請は?」
「出ておりませんでした」
「だとすれば、やはり学園の外で起きた事件、ということ……だとしても、やはり気に入らないわね」
「最近の会長は気に入らないことばかりのようですなあ?」
「その言い方はやめなさい書記長。爺臭くてあの理事どもみたいでうんざりするから」
「おや、失礼しました。以後気をつけましょう」
「――よろしい。まあ、警察対応についても今の所は中等部に任せるしかないようですわね」
雛乃がかぶりを振ると、滑らかな長髪の下、白いうなじが一瞬露になった。
(……んー、相変わらずお美しい)
鼻筋の通った整った横顔と、これも一瞬だけ見えた鎖骨とうなじ。
お前の眼は一瞬であらゆる女性を視姦できる――とは、彼の道化た外見に隠された性格をよく知る姉の言葉だった。
だから彼女できねーんだよおまいは、ともよく言われるが、彼は仕方ないじゃないか、とも思う。せっかくの記憶力を使わず腐らせるくらいなら、趣味に活用したほうがずっと有意義だと彼は思うのだが。
(――会長が知ったら、その場で眼をくり抜きかねないですがね)
ともあれ全部纏めてくっきりはっきり記憶に収め、密かに眼福に浸る入江に雛乃は別の話題を聞いてくる。
「それよりも、こちらには火急の件があったわね。どうかしら、内偵は進んでいて?」
「風紀委に探らせていますが、詳細はまだですな」
「いずれにせよ、出来るだけ内々で収めるよう配慮しなさい。通信委や報道部の動きは?」
「今の所は。しかし、ネタはどこからでも拾えるでしょうから、ある程度は掴んでいるかと。先に鈴をつけておきますか?」
「いえ、まだそれには及ばないわ。一応確認しておくけど、中等部の子は例の件と係わりはないのね」
「現段階では繋がりは見えませんな。データ上は真っ白で」
「――解りました。一応、その線も捨てないで引き続き内偵を進めなさい」
「は――では、私はこれで」
ご苦労様、と雛乃は慇懃にお辞儀した後出て行く書記長の背中を見送った後、横に向き直る。
「どう思いますこと?副会長」
影のように部屋の隅に控えていた男が、す、と机の脇に進み出た。
「――会長は、書記長の発言を信頼しておられないのですか?」
「いいえ?でも入江靖章と言う男は信用ならないわね……いつだって腹に一物抱えてる眼をしてるわ」
実の所、その目つきは腹に一物ではなく胸の中が欲望で一杯な結果なのだが、さすがの雛乃でもそこまでは区別できない。
「――お嬢様。同じ生徒会の仲間に対し、そういった発言は如何なものかと」
「生徒会室では会長と呼びなさい、景。ここでは貴方は篠森の執事じゃないのよ」
生徒会副会長――普通科三年、烏丸景。全く表情の読み取れないまま、彼は頭を下げる。
「――失礼致しました、会長」
「まあ、判ってはいるわ。入江は使い方を誤らなければ有能な男よ。それにしても任期終盤のこの時期になって問題噴出とはね」
「――しかし、あるいは今だからこそ、なのかもしれません」
「――?それはどういう意味――」
「しっ――失礼します!」
入江が閉めたばかりの扉を勢い良く開けて、今度は二号書記が入ってきた。
書記長の下につく、この春入ったばかりの一年生である。現状ではほぼ雑用係扱いの可哀想な存在だが、今だに雛乃に怯えているところが可愛くもあり鬱陶しくもある。
今日も会長と副会長、二人の三年生の前でびくびくしていた。
男ならもう少ししゃんとしなさい、と雛乃は正直思うのだが、とりあえず表情は変えずに尋ねる。
「……何かしら?緊急の要件ですか」
「はい!高等部学生寮から、無断外泊者の件で緊急連絡がありまして」
「――それが?」
どうしたの、と言おうとして雛乃は気づく。
無断外泊自体は、嘆かわしいことだがが良くあることでもある。
男子寮ににしろ女子寮にしろ、所詮体力と欲望を持て余した若者の群れを隔離して押し込んでいるのだ。
公序良俗を乱さない範囲においては、雛乃も教師陣も緩やかな処罰で充分と思っていた。
実際、通常は寮監と担当教師の裁量、それを超える場合でも殆どの事例は寮則と校則の範囲で片がつく。
だが。この状況はどうだろうか?
「既に二日間、戻らないとのことで――携帯も不通、保護者とも連絡が付かない状態だそうです」
中等部における行方不明者。そして、今回は無断外泊者。
雛乃は小さく舌打ちすると、またびくり、となった二号書記に言い放つ。
「寮監を呼んでいただけないかしら。それと書記長を呼び戻しなさい。今すぐに」
表情こそ平静を保っていたものの、口調に苛立ちが含まれるのは隠しようもなかった。
「え……ですが、まず担当教師と連絡を取るべきでは」

「呼びなさい、と言ったのよ」

この若い書記は、篠森の名をもつ生徒が会長であることの意味を未だ理解していないようだ。
「担当にはわたくしが直接話をします。良いですか、篠森雛乃が呼んでいると寮監に即刻伝えなさい」
「……は、はいいいっ!」
慌てて飛び出していく二号書記。それを横目に、先ほど去ったはずの人物がまたするりと入ってくる。
「教育が不十分なようですわね、書記長」
「附則第十七条――高等部の各種案件における最終決定権は統括理事会より校長権限を委託された生徒会長が有する」
しかし、附則を口にしつつ首を振っておどけてみせる彼は一向に堪えた様子もない。
「いやいや、これはどうも部下が失礼を」
「立ち聞きしていたんじゃないでしょうね。今度は何かしら」
にやり、と書記長――入江靖章は笑う。
「なに、ちょっとした噂を思い出して戻ってきたんですよ。耳に入れておいた方が良いかと思いましてね?」
その笑顔は道化のようにも、悪戯好きの悪魔のようにも見えた。

「――もしこの学園に、会長のまだ知らない親族が在籍しているとしたら……貴方はどうします?」


「夏目小太郎/丹羽桜子/篠森鳳四郎/蒲原千鶴」

放課後、校舎を出ようと二階の階段口まで来たところで俺は異臭を感じた。
どうも美術教室の方から流れてくるようだ。
「微妙に焦げ臭い……ほーさん、なんかやらかしたんじゃないだろうな……」
美術教室の主は俺も知らぬ人ではないのだが……正直、入学から一ヶ月たった今でもまるっきり何を考えてるのか解らない人である。
だが、その人物なら何をやらかしても不思議ではなかったので。
とんとん。
扉をノックすると、すぐ返事があった。
「はい、どうぞ?」
「……失礼しまーす……って、ほーさんなにやってんすか!」
「……ほーさん?それは僕のこと?……おお、夏目君じゃあないか」
あ、しまった。つい仇名で呼んじゃった。
一応、これでも先生なのに。
より正確に言えば、一部の生徒には「あほーさん」とも呼ばれてたりするのがこの美術教師だ。我が所属サークルのもう一人の顧問にして「会長」でもある。
「よく来たねえ。それにしても僕がそんな風に生徒から呼ばれていたとは……ふむ、これは面白い」
最も、当人は別に傷ついた様子もなくあっけらかんとしてるわけだが。
俺の意見に限ったことではなく、篠森鳳四郎は学園では謎の人物ということで評価が一致していた。四男とはいえ篠森本家の人間であるにも関わらず、一美術教師として昼行灯ぶりを一日中遺憾なく発揮する様がその仇名の由来らしいのだが、彼の顔も体も細長くぬぼー、とした佇まいを見ていると正直ぴったりだと思わざるを得ない。
一説によると、あんまりにも後継者として使えないんで島流しにあったとか。あるいは危険すぎる人物なのでこの学園で監視下におかれているのだとか、様々な噂が流れているが、小太郎が思うに後者はまず無いと思う。
前者はおおいに有り得る。何しろ普段から授業でもそれ以外でも覇気のないことおびただしい。しかも、暇な時間を見つけては毎回何やら不思議な事をやってくれる。
そもそも、この机を埋め尽くす実験器具(のようなもの)は何だろう。どう見ても美術用の器具とは思えないのだが。
「いえ、面白がられても……それより先生」
「んー?」
「これ、なんですか?」
どす黒い、固まった血のような不吉な色をした流動性の何かが加熱されたフラスコの中でぶくぶく茹っていた。何かとても名状し難い禍々しさを感じる。
「巧くいけば、あるものとまったく同じものができる」
「あるもの……って?」
フラスコをうっとり眺めながら、鳳四郎はさも嬉しそうに答えた。
「特上カルビの肉汁とまったく同じ味がするコーヒー状の飲みものが」
「はあ。先生、俺……失礼します」
「いやいや、もうちょっと待っていたまえ。できたら君に試飲させて……あれ?」

最後まで聞かずに、俺は扉を閉めてすたすたと立ち去った。
ほーさんに捕まると話が長いのだ。試飲が死因になるのも御免こうむりたい。
「大体、コーヒー『状』ってなんだよ……そもそも本物でも肉汁は飲みたくないぞ」
そのまま勢いで正面玄関の下足箱まで来て、あることに気づき俺は憂鬱になる。
空が暗い。雲が重く垂れ込めていた。
「……なんか雲行きが怪しいな。雨来るか?」
「――そうね」
気配の全然なかった背後から、いきなり声がした。
「うえっ!?」
「――そんなに驚かなくてもいいんじゃないかしら。ちょっと傷ついたわ……」
「桜子さ……いや丹羽さん?」
「もう……夏目君、桜子でいいわよ。クラスメートでしょ?」
「……そりゃそうだけど」
先日と同じ髪型と同じ服……制服だから当然か。何考えてんだ俺。
丹羽桜子が、そこにただ一人で立っていた。
いつものように綺麗で、優しい眼をした彼女。
「早く帰らないと、雨が降るわよ」
「……ああ」
「……顔赤いわよ。熱でもあるの?」
す、と、突然彼女は顔を俺に近づける。
整った顔と、滑らかな白い頬。
「――いや、別に」
「――そう」
じっ、と俺を彼女が見つめると、何か解剖されてるような気分になる。
多分、すごく落ち着かなくて格好悪く見えたと思う。
「……ふふっ」
彼女は小さな声で笑みをもらすと、それから一瞬だけ。
――俺との距離を、ゼロにした。
(――この前は、ありがと)
耳元で、囁く。
……彼女の唇が、耳にそっと触れた気がした。
(――また、ね)
す、と音も無く離れる彼女を、俺は固まったまま見送る。
廊下を歩き去る後姿だけが切り取られた一枚の絵となって残る。
彼女の行く前を遮る人は居ない。たとえ居ても、彼女を見つけた方から自分で道を譲る。
それすら自然な光景と俺に思えるくらい、彼女もまたそれを自明のこととして受け入れているように見える。
廊下向こうの薄暗がりに溶けていった後も、しばらく俺の目には彼女の残像が写ったままで。
まだ俺の心臓は早鐘のように脈打っている。
――なんだかな。なんだってんだろ、これ。
「……なんか耳が熱いような気がするな」
「――それは風邪ではないのか?」
唐突に、またしても気配のない方向から声が。
「うわあ!」
今度は本当に吃驚した。
下足箱のほうから現れたのは、長髪を後ろでポニーテール状に括った長身の女の子。
桜子が「綺麗」ならこちらは凛々しいとか清々しい、とかそんな形容が似合う……ような気がしないでもない。
「……なんだ、千鶴かよ」
つーか君たちはナニモノですか何でそんなに気配無いんですか。みんな古武道の達人ですか。
――まあ、俺が鈍感なだけかもしれないけれど。
「『かよ』か。……私が君を心配しているのに対し、その言葉はやや失礼ではないかと思うがどうか」
「――ああ、悪りい……でも、熱はないと思うぜ」
幼馴染の蒲原千鶴。高校一年にして町道場の師範代を務める剣道娘だ。
武士のような見た目と口調に違わず、性格もその戦闘能力も武士そのものの奴である。
桜子さんはともかく、こいつは多分その気になればほんとに気配を消せるんじゃないか、というぐらいの「達人」だ。
……俺は小、中でそれを身をもって知った。それからこいつとは喧嘩しないことにしている。
小中高とずっと一緒で家も隣同士、と絵に描いたような幼馴染だが、高校に入ってからはクラスが別になったこともあり、あまり話していなかった。
ちなみに背は俺よりちょっと高い。正直悔しいがそれを言うと真面目に怒るので黙っている。
「……今のは、丹羽桜子さん、だったか」
「……ああ、よく知ってるな」
「む、何しろ彼女は有名だからな。どんな会話を?」
「別に。雨が降るかな、とか」
「――小太郎、本当にそれだけか?」
この全く潤いの無い喋り方をする少女は俺に常に厳しい。
いや、正確には友人親兄弟問わず、千鶴はだらしない行動に厳しいのだが俺には特に厳しいような気がする。
「……なんでそんな不審そうに聞くかな」
至って真面目な顔のまま千鶴は答える。
「む、私はてっきり君が変な事を言って彼女を困らせていたのかと」
「なんだよ、俺は変人かよ」
「いや、そういう意味ではないが……本当にそれだけか?」
そう言われるとそれだけじゃないような気もするがなんか説明しづらいな。
耳に触れた感触。あれは……実際なんだったんだろう。偶然か、それとも。
「……おや。本当に降って来たな」
千鶴が見つめる外の空はいつの間にか真っ黒で。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。
「……ああ」
見る見るうちに、本降り。
ざあああああああああ。
俺は傘を持って来てないのでさてどうしようか、と思っていると。
「……使え、小太郎」
千鶴が傘をずい、と差し出す。ピンク色の可愛い折り畳み傘だった。
こーいうところは女の子っぽいんだがなあ、と俺は嘆息する。
何しろ口調とかもし出す雰囲気が漢そのものなのが惜しい。
「おお、有難え……けど、お前は傘あるのかよ?」
サークルに顔出そうかな、とも思っていたが、今日行くとほーさんのあれを飲まされそうな気がしないでもない。
だから、これを借りて帰るのはそれはそれで構わないのだが。
「いや。朝は自転車で来たから、帰りもそれで一気に突っ切ろうかと」
千鶴は平然と答える。……こいつは脳の中身まで漢ですか。
「お前は馬鹿ですか。スカートからなにからずぶ濡れになるぞ」
「別にかまわない。心の鍛錬にもなる」
たまーにこいつは武士と言うよりただの馬鹿じゃないのかと思うこともあるが、そのストイックな所は敬服しなくもない。
だが。
「馬鹿……服が透けるかもしれねーだろ」
「――別にかまわないが?」
いやいやいや。あなたがかまわなくても周りの人が視線に困ると思うんだ俺は。
「……すれちがう奴が見るだろうが」
それに。なんとなくそういう状況は個人的に納得いかない気がした。
「――どういう意味だ?」
「……そのまんまの意味だよ。俺が傘さしてやるから、一緒に帰ろうぜ」」
ほーさんの肉汁コーヒーを避けたかったとはいえ、何故そんな事を言ったのかは、俺にもよく解らないけど。
「……ああ、それなら、お願いするとしよう」
千鶴も、何か勝手に納得したように頷いた。
「小太郎と帰るのは久し振りだな」
自転車を押す千鶴の横を並んで歩く。
「そーか?ま、クラス別だしな」
雨足は相変わらず強いが、風はあまり無いので並んで歩くのにさほど支障はなかった。
千鶴が濡れないよう傘を差し出してる俺の姿は傍目にはどう移っているのだろうか。
優しい男……いやいや、せいぜいお姫様に仕える下僕がいいところだろうな。
「君は道場を辞めて妙なサークルに入ってしまったし」
何処と無く恨みがましい口調で千鶴がぼそりと言う。……なんか怖いんですけど。
「……お前も入れろって先輩には言われてるけどな」
「断固として拒否する」
あっさりとつれなくすげなく断られる。まあ、これは予想通りだが。
「顧問はあの篠森鳳四郎と入江先生だし、先輩と言ってもうちの兄と甲斐さんだろう。変人ばかりではないか……まあ、君も変人だからお似合いかもしれないが」
「子羊のように無垢で純粋な俺を捕まえてそう言うのか?それに、仮にも兄貴を変人扱いするのもどうかと思うぞ」
蒲原家は兄と妹の二人兄妹である。そんなとこも隣同士で同じだったが、俺としてはそれ以外はあんまり似てないと思う。
妹が兄より普通なのも同じだねー、と仄花は言うのだけど、それには激しく異議を唱えたい。仄花自身はさておいても、少なくとも今隣を歩くこの剣道娘は普通などではない、と俺は断言したかった。
「無垢と純粋の定義を勝手に書き換えないでくれ。それに兄の変人ぶりは小太郎もよく知っているだろう」
「まあ、あの人が高校生らしくないのは同意するけどな。つーか、お前だってその年頃からするとまともじゃねえよ」
「――そうか?」
あれ?なんかしょぼん、となってる?……と思いきや。
次の瞬間には変わらぬ表情のまま、鞄を片手で俺に向かって振り上げる千鶴。
「もう一度言ってくれないか、小太郎」
「――いや嘘嘘!あなたは至ってまともです。だから頼むからその鞄を下ろせ!」
こいつの鞄には鉄板がぎっしり詰められているのを俺は知っている。
日常から筋トレするためらしいが、正直今時そんな方法をあえて選ぶ辺りやはりまともではない。幼少のころ、兄弟子たちが道場に放置したヤンキー漫画に影響を受けたせいらしい。
まあ、外見がヤンキーでないだけまだ真っ直ぐ育ったというべきなのか。
しかし、恐らく二十キロ近くあるはずの鞄を片手で軽々と振り回す少女はやはり普通ではないと思う。
「子羊……どちらかというと君は百匹の群れから一匹だけ迷い出た困り者の羊という感じだな」
「聖書を引用してまで俺を貶めるのか……」
「いいではないか。神様はそんな羊でも見捨てないというぞ」
「自分が神様みたいな言い方するなよ」
そう言ったとき、千鶴の足が止まったような気がしたがそれも一瞬のことで。
「――どうだろうな」
雨の向こう側を見つめたまま、千鶴はぼそりとそれだけ口にした。
「ああ?」
「……ふ、なんでもない。これ以上の回答は拒否する」
表情をあくまで変えないままそう言った千鶴は、だけど何処か楽しそうに見えた。
……それぐらいは俺にも判ったけれど、俺は何もそれには答えず。
「……そうかよ」
一言、ぶっきらぼうにそう言っただけだった。

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